第15回水曜瞑想会

水曜瞑想会は、仕事の喧騒から離れ、道場の清浄かつ静謐な空間で修行に専念することができる、とても貴重な機会です。

本日の法話のテーマはYathābhūtadassana(如実知見)です。以下に概要を記載します。

例えば時計を見るとき、私達は何を見ているのでしょうか。それは、一瞬一瞬生起消滅する色の粒子です。時計の形や時間の認識は、これまでの経験に照らして色彩から推定したものです。

このように、「時計を見る」という行為は、①多様な色彩を見る行為と、②色彩から形を推察し、同様な形を過去の経験から探し出し、「時計」と認識する行為が交錯しています。第1の行為はparamattha(勝義諦)、第2の行為はpaññatti(施設)であり、明らかに異なる行為です。

「今この瞬間の現象をあるがままに見る」には、多様な色彩を見るだけにして、思考を除去します。通俗的なmindfulnessは、対象の名前を「山、家、道」などとlabeling、notingしており、あるがままに対象を見ていないため、mindfulとは言えません。

雨粒一滴が落ちるとき、雨粒が動くのではなく、rūpaはその場で生起消滅し、次の瞬間にわずかに下方で新たな雨粒が生起消滅しています。このように、いかなる現象も「生起した場所で」消滅しますので、「あるがままに見る」とは、新たに生起しては消滅し続ける色彩を見つめ続けていくことです。思考が入りこんではいけません。

同様に、Ānāpānasatiでは、入息・出息を考えてはならず、息が当たる感覚を感受し、次の瞬間に新たに空気が当たる感覚を感受することを繰り返す(第1の行為をし、第2の行為はしない)ことが必要です。

五門の全ては今この瞬間の感覚だけを感受し、過去の感覚は感受できません(過去の感覚の追体験は思考です)。したがって、「今この瞬間にありのままに気づく」とは、「この瞬間において対象を感受し、次の瞬間にまた新たに生起した対象を感受することの連続」です。これこそがmindfulであり、 Yathābhūtadassana です。

この基本原理をcankamaで随念し、「この瞬間を感受する」とはどういうことか、本当に深いところで理解するようにしてください。

法話の概要は以上です。とても精妙で深い内容であり、私はまだ随念しかできませんが、1日も早く如実に見られるように精進したいと感じました。

参学者 S

第14回水曜瞑想会

会社帰りの水曜瞑想会、前半30分間は禅師・参加者の皆さんとともに坐ります。傳修院の瞑想室で坐っていると心に安心を感じます。個人的な感想ですが、安心して瞑想できる場があるのは本当にいいなあ、と思います。

今日は、長く体調を崩されてお休みされていたOさんのお姿もありました。Oさんがいらっしゃるとなぜか、より安心します。「電気関係のプロだから何か壊れてもすぐ直してもらえる!」と思うからでしょうか…いえいえ、Oさんのお人柄のおかげです。
私はアーナパーナサティ実践もまだまだ初心者で、坐ることに一生懸命、いまのところ瞑想は楽しく好きですが、これから先は本当に長そうです。それだけに安心して坐れる傳修院の瞑想室の存在は非常に助かります。


さて、今日の法話は「日々の生活の中でプロテクションをお願いすること」についてでした。
プロテクションをお願いするとは、日常生活での思わぬ災難や事故、また、そこまでいかなくともアスピレーションがそこなわれるような事態、そうしたことが起こらないように仏法僧にお願いすることです。
まず、ブッダニミッタを常に所持するようにし、1分ほどの短い瞑想をした後、そのブッダニミッタをみながら(ない場合は想起しながら)Namo tassa〜、そしてpatthanuddeso(Hetu-paccayo, Arammana-paccayo~)を唱えます。
パッターナウッデソは強力なプロテクションとのことです。
その後、これから行うことの安全・安寧をお願いします。
そしてその事柄が無事終わったら、Namo tassa〜、三帰依、そして「どうもありがとうございました」と感謝し、廻向して終了です。
禅師は、小さなことだがとても大切なことです、と仰っていましたが、本当にその通りですね。
仕事や勉強、試験や車の運転、大事な商談の際など、また、何か災難がありそうなときなど、日常の出来事の前後に是非実践したいと思います。

参学者SA

第13回水曜瞑想会

本日は水曜瞑想会でした。リトリートの前ということもあり、気が引き締まります。

今日の法話は瞑想の姿勢についてと、瞑想に入る前の呼吸法についてでした。(調身と調息)

特に調息についてはこれをやるのとやらないのとでは気合の入り方が違います。

この法話はずっと初期の頃にされたそうですが、その頃は居なかったので、この場で話を聴くことができ、とても有意義でした。

リトリートまで2日ありますが、今日聴いた内容を実践しつつ、土曜日に備えたいと思います。

参学者K

第12回水曜日瞑想会と2月リトリートについて

昨日は水曜瞑想会に参加しました。

まずは禅師、法友の皆様とともに30分の一座です。1人で座るより不思議とこの静寂な一座はあっという間に過ぎてゆきます。

続いてmini法話です。今回はきたる2月10日(土)〜2月12日(月)に行なわれる公式リトリートについてお話しされました。

今回のリトリートは八戒護持、聖黙徹底はもちろんのこと、歩行瞑想を中心とした四つの威儀姿勢について実践の伝授がされるとのことです。これは非常に楽しみですね!久しぶりの個人インタビューも実施され、短いながら充実したリトリートになりそうです。

参加者に課せられた義務としてリトリートまでに、日々の瞑想時間を増やして体を長時間の瞑想に慣らしておくことが重要だということです。

詳細はまた追って告知の予定です。
私も日々の瞑想時間を増やし備えたいと思います。参加者される方どうぞよろしくお願いします!

参学者C

第11回水曜瞑想会

毎週水曜日は20時から30分間の瞑想会とミニ法話が行われています。

静謐な環境で、saddhāに溢れる禅師や善友と共に瞑想をしていますと、姿勢を正し、心を清らかにし、呼吸に集中しようと意識が高まります。

法話のテーマは、jarā(老い)です。
第2回目となる今回のポイントは以下の3点です。

①Nāmarūpa-sota
人生を今生(誕生から死まで)に区切って捉えるならば、過去は増えて未来は減るため、過去に執着して縛られ、未来には余裕も希望もなくなる。

他方、無始の過去から連綿と流れるナーマルーパ(Nāmarūpa-sota)が現実であると知り、saddhāがある真摯な修行者にとっては、生死は境涯の調整(adjustment)に過ぎず、涅槃証悟はいつか必ず実現すると知っているため、死ぬ瞬間まで、明るくワクワクと生きられる。

②Past is dust
人生を今生(誕生から死まで)に区切って捉える人にとって、生存は過去そのものであるから、過去に執着してしまう。

他方、無始の過去から連綿と流れるナーマルーパ(Nāmarūpa-sota)として捉えた場合、延々続く過去は執着しようがない屑であって(past is dust)、未来は生死を超越した涅槃証悟への一本道であり、光と希望に満ちた人生となる。

③Newness
人生を今生(誕生から死まで)に区切って捉える人は、自我があるという謬見によってself-imageに縛られ、新しいことを受け入れられない。

他方、無始の過去から連綿と流れるナーマルーパ(Nāmarūpa-sota)として捉えた場合、新しい技術、創造性、ダンマに直面したとき、心は子供のように柔らかく、スポンジのようにnewnessを吸収し、死ぬ瞬間までnewnessにワクワクしながら生きていける。

このように、誕生から死で区切らずに、Nāmarūpa-sotaというストーリーのワンシーンとして捉えること。これが、人生を先に行けば行くほど、ワクワクしながら生きていくコツであることが示されました。

禅師の目は、好奇心に満ちた子供のようにキラキラ楽しそうに輝いていらっしゃいました。動画がアップロードされたときは是非ご覧下さい。

参学者 S

第10回水曜瞑想会


本日は、仕事が早く終わったので、2週間ぶりに水曜瞑想会に出席させていただきました。本日の瞑想会は、新規参学者1名を含む8名の参学者が、禅師とともに瞑想を行いました。やはり、一人で瞑想をするのとは違い、瞑想終了後はとても気持ちが落ち着きました。


続きまして、「老い」について、修行者としてどのような心構えで接すれば良いのかお話しいただきました。「老い」とは、決して逃れることのできない「行苦」ではありますが、日々それを意識することはなく、ある日突然それに気付き、愕然とするのが常ではないでしょうか。そして、悟りに至らぬ凡夫である私たちは、ともすれば世間的な「老い」の常識にとらわれ、必要以上に「老い」を意識し過ぎて意欲が減衰し、生きる目標自体も矮小化し、挙げ句の果ては、「老い」に対する怒りや、「若さ」に対する嫉妬などの不善な感情を生起させてしまいがちです。これでは、いつまでたっても涅槃証悟はできません。従って、逃れることのできない「老い」という苦ではあるけれども、それは一つの現象であるという認識を強く持ち、その現象に執着することなく、「解脱」という唯一の目標を達成するために、ひたむきに努力する必要があるということを学びました。そろそろ、世間的な「老い」ということを意識しだす年齢の私にとっては、非常にためになる法話でした。


このように、水曜瞑想会の時の法話は、時間的に短いですが、修行に役立つ重要なものばかりです。皆さんも、都合がつきましたら、ぜひお越しください。

参学者Y

第9回水曜瞑想会

1月10日、仕事を切り上げ、水曜瞑想会に参加するため会社を後にしました。職場から傳修院まで約1時間。心は仕事のあれこれや煩瑣な職場の人間関係などでざわざわしています。少しでも静寂な状態に切り替えねばなりませんが、「今回の報告を役員にどう説明しよう?」「あの部署とは仕事がやりにくいな。今日だって…」となかなか心は静まりません。傳修院の瞑想室に坐り、お釈迦様に三礼して、ようやく心が凪いできます。


そして、禅師と共に30分坐ります。呼吸の感覚を切れ目なく感じながら息を観察し続けること、そしてすべてを手放してただ坐ること、私にとってその難しさは相変わらずですが、それでも瞑想が終わる頃には心は安らかで平静でありながら、なにか焦点が合ったような集中した状態になりました。

その後の本日の法話は、強く安定したアスピレーション・菩提心を継続させるために必要なものについてのお話でした。
仏法僧への信、六随念など、これまで信(saddha)の対象について注意を払うことが多かったのですが、それだけでなく、信の土壌となる信根(saddhindriya)が重要であること。信根を確固としたものにするために必要なもの、それは修行者としての自分自身への信、自分自身への絶対的な確信(!)である、ということ。つまり、仏法僧への信と共に、自分は決して揺らぐことのないお釈迦様の弟子なのだ、という自分自身への絶対的な信が必要であって、その二つは車の両輪のようなものである、ということです。

いつもは冷静で流麗であることの多い禅師の語り口ですが、今日はまさに情熱がほとばしるような法話で、獅子吼とはこのことかと感じました。


その一方で私は、修行はもとより日常生活での自分自身の不甲斐なさにも思いをはせていました。何を見聞きしても過去の自分の言動に駄目出しをする自分。現在の自分自身への信など微塵もない自分。禅師の熱い言葉は剣となって私の弱い心を打抜いたように感じました。参禅中に警策で弱い性根をしたたかに打たれたかのようです。
後日、本日の法話が傳修院TV等にアップされましたら、ぜひご覧になってください。

参学者SA

2018年年始法話&第8回水曜瞑想会

一月一日
新年特別講話#1「Newness」

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

傳修院では年越しを道場で過ごすセルフリトリートが行われておりました。テレビも無い環境で好きなだけ座ったり、作務をしたり、仏教書を読むことができました。

新年最初の宿泊者には完全ビーガン料理がふるまわれました。けんちん汁+お餅(各自の好みでお雑煮に)、大豆の煮物、切り干し大根と昆布の漬物などです。心だけでなく体のデトックスもできますね。
土曜の托鉢会でも一部はベジタリアン・ビーガン料理が提供されます。興味のある方はぜひお越しになってください。動物性のお料理もありますので、お好みで取り分けることができます。

午後からはマハーカルナー禅師による新年最初の法話が行われました。
テーマは「Newness – 新しい夜明け -」。仏教修行における大切なコツをお話していただきました。
新年から法話を聞きに行くことができる環境が整ったのも、道場開山の大きなメリットです。
法話のあとは軽い懇親会も行われました。

今年も皆様に幸多き年になりますよう、お祈り申し上げます。

参学者R

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一月二日
新年特別講話#2「Oneness」
本日は、午後2時から新年特別講話の第2回目として、「Oneness」について禅師からお話しいただきました。

この「Oneness」は、自分と他の有情とは一体であり、両者を区別する境界線という物はないという教えで、心をKusalaにするための重要なカギであると教えていただきました。確かに、自分と他人の間に境界線を引き、区別して比較するから、DosaなどのAkusala Cetasikaが生起するのであって、その区別が無くなったならば、全ての有情が「私」と同一となるため、慈悲の感情しか残らなくなるのではないかと思います。個人的に慈悲の瞑想があまりうまくいかなかった原因は、この「Oneness」という考え方がしっかりと理解されていなかったからだと思いました。 ところで、今回の講義では、「ブッダ(あるいは仏弟子や直接の師)とのOneness」、「瞑想の対象とのOneness」、「法友とのOneness」、「一般社会で関わる人とのOneness」の4つの「Oneness」について実践するようにご指導いただきましたが、特に2番目の「瞑想の対象とのOneness」については、正直驚きました。対象を感じたり、対象を念じたりする「私」というものを意識しているうちは、本物の瞑想ではないということでしょうか。このことについては、もう少し考察してみたいと思います。
以上のように、時間的には短いですが、実に深い内容であって、今後の修行に大いに役立つ内容の講義でした。
皆様も時間の許す限り、道場にお越し頂き、禅師の御法話をお聞きいただければと思います。

参学者Y

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一月三日
新年特別講話#3「Self-transcendence」
新年特別法話の三日目、最終日です。
禅師が法話の前にお正月を師や法友と過ごすことのすばらしさについて言及されていました。
一年の初めを傳修院で過ごし功徳を積んでいることをかみしめました。

本日のテーマはSelf-trancendence-自分を超える-でした.
Māna(慢心)についてさまざまな角度からお話ししていただきました。
Mānaについてはアビダンマ講座ですでに学習済みではありましたが本日拝聴して改めて気づかされることがありました。
いかなることにおいても自分と他人とを比べる必要がない、競争すべきは自分自身の過去、自分の限界だというのが印象的でした。
競争社会で生きている私たちはついつい人と比べがちなのでこの事を胸に刻んで無貪に励みたいと思います。

さて、次回は1月6日(土)、傳修院開山後初の原始仏教トークです。会場は稔(みのり)台市民センター小ホールですのでお間違いないようお気を付けください。お誘い合わせのうえ、どうぞご参加ください。

参学者T

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今回の水曜瞑想会は、新年特別講話の後、午後3時から行われました。

まず、チャンティングをし、瞑想です。
私は初めての参加でした。
禅師とともに座らせていただくことに気が引き締まり過ぎ、緊張してしまいましたが、素晴らしい時間でした!

ミニ法話は「アスピレーションと出家」です。

・たとえ食べるものがなくてもダンマ無しには生きられない!という湧き上がるような、最高に高まったアスピレーションがあり、そこで初めて出家を考える。
・毎日誓願をする。
・周りの環境が次第に整ってくる。
・「Ehi Bhikkhu!(来たれ 比丘よ)」
まさにそのようにお釈迦様に認めていただけたら、周りの人たちからも祝福されるような出家の機会が自然と与えられる。

出家とは決して、自分の意思を押し通してするものではない。
そうでなければ、一生涯比丘としていられない、長続きしない、ということでした。

また、
ダンマが無ければ生きられない、ダンマに身をゆだねたい、という自己放棄の感覚、最高のアスピレーションがあれば、出家であれ在家であれ、涅槃はすぐそこに見えてくる、とおっしゃっていました。

「Ehi Bhikkhu!」
お釈迦様の祝福の中、お釈迦様についてゆくことができたら、どんなに幸福でしょうか。
考えただけでも胸が熱くなってしまいます。

在家である私たちは、禅師にお会いし、法話を聴き、法友と集うことで、アスピレーションを守り育てることができます。
ともに精進させていただきたいと、思います!

水曜瞑想会、短くとも大変濃密な時間でした。

さて、来たる 1月6日(土)、原始仏教トークが行われます。
お釈迦様の歩まれた古の道…
ともに涅槃証悟への決意を新たに…
禅師の最高のアスピレーションに触れることができそうで、私も楽しみにしています。
たくさんの方の参加をお待ちしています!

参学者 U