2018/10/17 第49回水曜瞑想会

数年前のことですが、何かと不安になりやすく悩みごとの絶えない私は、そうした自分自身を少しでもラクにする手段はないものだろうか、と常に考えていました。そうした中で現在も流行中のマインドフルネスを知り、興味をもって調べていくうちにマインドフルネスの源流に南伝仏教の「ブッダの瞑想法」があることを知ります。

「仏教の瞑想といえば、坐禅じゃないのかな? どんなものだろう?」と、興味をもった私は南伝仏教についての本を読み様々な法話会、瞑想会に参加しました。

最初の心づもりとしては、ちょっと南伝仏教の瞑想についてかじったらマインドフルネスの勉強に戻ろうと考えていました。ところが幼少の頃から宗教が好きだったこともあり、さらに南伝仏教のお坊様方がとんでもなく魅力的な方々ばかりということもあり、とうとうマインドフルネスに戻ることはなく現在に至ります。

南伝仏教のお坊様方の素晴らしさについては、当時このように考えていました。まず、悩みをもった人々への説法の場では、世俗的な悩みでも哲学的な迷いでも、とにかくどのような質問でもパーリ仏典に基づく仏陀の知恵で気さくに答えてくださる。さらに、法話だけではなく、バリエーションはありますが瞑想の仕方を教えてくださるのです。つまり現実的、実践的に悩みを解消するツールを与えてくださる。しかも多額のお布施を強要するということはない。ないどころか要求すらしない! なんと素晴らしいことでしょう。日本にたくさんある大乗仏教のお寺やお坊さんがやるべきことはこれではないのかな。そのように感じ、南伝仏教に惹きつけられたわけです(もちろん、現在では日本のお寺やお坊様も様々な取り組みをされていることを承知しています)。

仏教的な考え方や瞑想の実践は、多少なりとも私の心に安穏で静寂な時間をもたらしてくれました。

さて、今日の法話は「無碍解道入出息論 三十二作念智」の「短入出息」及び「遍身出入息」についてです。
今回は、まさに瞑想法アナパナサティについて、それを修習しようとする誰もが疑問に思う点についての伝法でした。

アナパナサティ・スッタで「長い息を吸っているときは〜」からはじまるスタンザにおいて、一行目と二行目の「長い息」「短い息」とは? 「長い」「短い」の基準はあるのか? 「長い」息と「短い」息を決めたとして、では具体的にどのように修習すればよいのか?

また、三行目の「Sabbakāyapaṭisaṃvedī~」のSabbakāyaとはなにを指すのか? 身体全体のことなのか、それとも呼吸自体をKāyaとみて息の全体を感知することなのか?

こうした点について、サーリプッタ長老の説示とされる無碍解道では具体的に記述されており、それを禅師が明解に紐解いてくださいます。説明に際しては、アビダンマによる豊かな肉付けもあり、その伝法は明解でありながら大変詳細なものでもありました。

傳修院からの帰り道、法友の方々との第一声は「今日(の法話)はすごかったね!」でした(思い起こすと毎週そう言いながら帰っているのですが)。
理解するだけではなく、さっそく自分の瞑想の修習に取り入れていきたいと思います。

参学者SA

2018/10/10 第48回 水曜瞑想会

本日は水曜瞑想会でした。静謐な雰囲気の中で禅師や善友と共に瞑想をすることができる貴重な機会です。

瞑想後の法話は、無礙解道論です。今月からいよいよ、四念処の最初に書かれているānāpānasatiについての解説が始まり、心躍ります。

本日は、先の土曜日に開示された「長入出息の九行相」の復習から始まりました。アナパナサティの十六行のスタンザは各行が入息と出息から成り立つため、実質的には三十二行から成り立ちます。九行相は、その三十二行の全てに当てはまる修行のポイントであるため、特に重要であるとのことです。

禁他見のため詳細は省略しますが、最初の三行相は以下のとおりです。

①長い入息とみなした長さいっぱいを正念正知をもって出息する。
②長い出息とみなした長さいっぱいを正念正知をもって出息する。
③長い入出息とみなした長さいっぱいを正念正知をもって入出息する。

ここでは、呼吸の長さではなく、呼吸の長さいっぱいを観察しながら感受していくことが大事であり、単に呼吸の一部を捉えて「入息」「出息」とラベリングするものではありません。

次の三行相は以下のとおりです。

④Chanda(志欲)が生じて、さらに微細に なった長い入息について(以下、①と同じ)。
⑤Chanda(志欲)が生じて、さらに微細になった長い出息について(以下、②と同じ)。
⑥Chanda(志欲)が生じて、さらに微細になった長い入出息について(以下、③と同じ)。

最後の三行相は以下のとおりです。

⑦Pāmojja(勝喜)が生じて、さらに微細になった長い入息について(以下、①と同じ)。
⑧Pāmojja(勝喜)が生じて、さらに微細になった長い入息について(以下、②と同じ)。
⑨Pāmojja(勝喜)が生じて、さらに微細になった長い入息について(以下、③と同じ)。

以上の九行相がアナパナサティの骨組みであると説示されました。

さらに進むと、Cittaの所縁が長入出息から退転するという現象が生じ、そこにTatramajjhattatā(中捨)が確立し、Upacāra-samādhi、Appanā-samādhiへとCittaが導かれていくと説示されました。以上が前回までの復習です。

次に本日のテーマであるSati Upaṭṭhānaの解説です。
Sati Upaṭṭhāna(念の現起)とは、Kāya(入出息と触)を感受・観察するレベルの念と、慧根と結びつき活性化した鋭い念(正念正知)との二段階の現起があることが開示されました。また正念正智によってKāyaを随観することが四念処法となると説示されました。

引き続き、Anupassanā(随観)の概説がありました。
無礙解道のこの部分はVipassanāの解説ではあるものの、修行法を俯瞰する上で役に立つため解説をいただくことができました。
四念処法は、禅定修行から観行、道果智の証悟に至るまで、螺旋階段状の構造になっており、Bhāvanāもまたそのように修されるとのことです。

例えば、Iriyāpatha(威儀)の「比丘は歩いている」を例にとると、
初心の修行者であれば、メタ認知のように「私は歩いています」「私は前に右足を出しています」などという行動認知の段階からはじめる必要があるかもしれません。

しかし実際のVipassanāの段階に至れば、先ず「歩かん」とのCetanāが生起し、実行するChandaが生起し、同時に生起するCittaがKāyaviññattiを生起させて、自分の足を中心とするKāyaが今の場所で消滅して次の場所で生起する、というプロセスの繰り返しによって歩行が成立していることを観察し、そこに関わるすべてのCitta、Cetasika、Rūpaの生起消滅を明確に識別し、そこに内在する無常性・苦性・無我性を随観していきます。

Ānāpānaを禅定修行として修習しているのであれば、先の無礙解道論の解説のとおり、ChandaとPāmojjaにそって修行していけばよいわけです。

しかしVipassanāの段階のĀnāpānasatiでは、Kāya(入出息であるCittaja rūpaとPoṭṭhabbaの三種のMahābhūta-rūpa)について生起消滅を明確に識別し、そこに内在する無常性・苦性・無我性を繰り返し随観し、常住・常楽・実体という謬見を砕破するべくVipassanāを何度も修習していきます。

この二つの別の段階を混ぜて、Pāmojjaの歓喜を否定して、これは苦である、と観察することはもちろん誤りであり、禅定修行とVipassanā修行を決して混ぜてはいけない、ということを重ねて注意されました。

参学者S

2018/10/03 第47回 水曜瞑想会

本日は水曜瞑想会に参加しました。心地よい静寂の中、30分間の瞑想では、先日のメディテーション・ワークショップで学んだ調身・調息からじっくりと瞑想に入っていき、あっという間に終了の鐘が鳴りました。

続いて無礙解道の伝法です。今日から大念処経、安般念経に記されているアナパナサティのスタンザの解説が始まりました。

本日は前文の「森、樹下、空き家にて結跏し、身を真直にして念を現前に置き正に入出息する」という部分の読解でした。原文のパーリ語を1つ1つ参照しながら丁寧に解説いただいたのでとてもわかりやすかったです。

個人的に感銘を受けたのは「アナパナサティの対象であるTouching Point(呼吸が皮膚に接触する点)は禅定への入り口」ということです。
その大切な入り口を瞑想中に容易に見失ってしまうのは、接触点に対して念をもって専注するべき「心」が、専注を離れて移ろってしまうからだ、と感じました。決して見失わないよう修習を深めていきたいと思います。

次回の伝法は来たる土曜日、托鉢会の後のリトリート伝法となりますが、アナパナサティ修行者にとって最も馴染みのある「長い息を吸いながら…」のスタンザの解説に入っていくとのことなので、とても楽しみです。

参学者C

第46回水曜瞑想会

冷たい雨の中を水曜瞑想会目指して歩きます。住宅街の夜の暗がりに傳修院をみつけると瞑想室の窓にほんのり明かりが灯っているのがみえました。その暖かな明かりをみてなんだかホッとしたような気持になります。水曜瞑想会はまず30分の瞑想からスタートしますが、心から安心して坐れる場所がある、ということはありがたいことだと毎回実感します。安心して坐ることができる場所だと瞑想の質が違うように感じますし、瞑想後の余韻も気持ち良いものに感じられます。

本日の法話は無礙解道入出息論 Lokoti(世間論)です。お釈迦様の世間における役割について説かれたものとのことです。

禅師が以前おっしゃられたように、瞑想前にお釈迦様の徳について隨念することは非常に大切なことのようです。お釈迦様の智慧、お釈迦様の慈悲、お釈迦様の清らかさなどを自分の内に想うことで自らの中にそうした智慧、慈悲、清らかさが育っていくように私にも少しだけですがそのように感じられます。

…ところが、このことにともなって最近よく考えるのは、実は私はお釈迦様のことをよく知らない、という事実です。

確かに、私は子どもの頃にお釈迦様が主人公の絵本をみていた記憶がありますし、神社仏閣が大好きで以前は浅草寺、川崎大師、成田山新勝寺などのお寺に月参りしたり、禅寺の坐禅会に参加したりしていた時期もありました。
般若心経や観音経、維摩経といった御経に関心を持ち解説書を読んだり、仏像が好きになって博物館の仏像展を見に行ったりもしました。ですから、自分は仏教を少しは知っているのだと思っていたのです。
しかし考えてみると、私は仏教をお説きになった肝心要のお釈迦様のことをよく知らないのです。
お釈迦様よりは、空海や白隠の業績の方を詳しく知っているかもしれません。パーリ経典はそのほんの一部分しか読んだことがありません。「信」という点でも釈迦如来像より観音様や不動明王に親近感を抱いてお祈りしていました。

お釈迦様とはどのような方だったのか…。
そこで、現在は原始仏教関係のお釈迦様に関する書籍には努めて目を通すようにし、禅師からいただいた佛陀ニミッタは常に持ち歩いて折に触れ心にとめるようにしています。そして、この水曜瞑想会の法話では前回までの佛陀論、今回の世間論ともにお釈迦様がどのようなお方なのか、どのような徳をお持ちなのかが分かり、大変有益だったと感じます。

傳修院の参学者の方でインドを旅され佛陀の聖地を巡礼された方がおりますが、古の精舎跡で瞑想することによってもお釈迦様とそのお弟子たちの息吹を感じることができるとのことでした。もちろんその方は高い境地をお持ちの方ですが、私もできるだけお釈迦様を自分の内に感じることができるよう努めていきたいと思います。

無礙解道Lokoti(世間論)の解説は今回一回で終了ですが、無礙解道には短いながら素晴らしい内容のスタンザがたくさんあるとのことで、すべてでなくともその短いフレーズ(パーリ語と南伝大蔵経の訳文)だけでも覚えるのがよい、と禅師よりアドバイスがありました。私も少しずつでも前進できるよう精進したいと思います。

参学者S

第45回水曜瞑想会

夏の暑さもようやく終わり、会社を出るとすでに日は落ちすっかり暗くなっています。薄手のシャツだと少し肌寒いくらいで秋だなあ、と感じる今日この頃です。瞑想にはうってつけのこの季節、本日も水曜瞑想会に出席しました。

先ず禅師とともに30分の瞑想です。
気候が良くなり、仕事の疲れもあって、今日は途中から少し睡魔に襲われてしまいました。

 

その後、小休憩をはさんで無礙外道の佛陀論の伝法がありました。
お釈迦様の十五のお徳の最後、13~15番目のスタンザについての講義が行われました。
これらのスタンザでは、
① お釈迦様の修行道
② 修行により証悟された智慧
③修行の結果の省察
について開示されています。

まず①の修行道とは四念処法のこと。大念処経のUddesoに「涅槃に至るただ一つの道」と述べられているとおりです。
次に②は無上正等覚(最高の悟りの智慧)を現等覚(今まさに証悟)されたということ。
そして最後の③は、悟りの智慧にあらざるもの(すなわち一切のĀsava)を破壊・根絶することによって涅槃を証悟されたという意であるとの説明がありました。

Nibbanaの性質や働きは、言葉によって表現することは決して出来ないもので、
Nibbānaは「Nibbanaにあらざるもの、すなわちĀsavaを破壊することによって、Nibbānaに至る」というふうに、「~ではないもの」という否定の形でしか表しようがない、故にお釈迦様は「Nibbanaは語られるものではなく、体験されるべきものである」と説かれたのだということでした。

南伝大蔵経をただ読んだだけでは表面的な意味ですら分からないであろう「一行道」「正等覚」「現等覚」などの難解な仏教語を、原文であるパーリ語を分解して解説していただけるので非常に分かりやすく、正に傳修院でしか聴くことのできない無礙解道論の醍醐味だな、と改めて思いました。

今、机に置いてあるお釈迦様のニミッタの前でこのブログを書いています。
佛陀論で教えていただいた15種のスタンザを最初から読誦してみました。
暗記は一筋縄ではいかないかも知れませんが、よく復習し、少しずつ暗記をしながら、意味をご講義通りにちゃんと掴み、何時の日か、随念のレベルまで理解を深めることを目標に精進しようと思います。
お釈迦様と一体になれることができたらなんと素晴らしいことでしょう。
いつの日かそのようになりたいと強く、強く思います。

参学者N

2018/09/12 第44回水曜瞑想会

水曜瞑想会では、サーリプッタ長老の口伝集とされる無礙解道論について解説されています。

本日は、佛陀論の続きであり、第4から第6の徳が解説されました。
禁他見のため詳細は省略しますが、修行者は、お釈迦様を思い浮かべて専注し、佛陀と一体となって自他の区別がつかない境地に達し、佛陀の徳との共通性を自分の中に見出し、
引き出しうる最高の質を自分の中から引き出すよう説かれました。

例えば、第5の徳である「他者から教えられることなく智慧を得ること」について、佛陀と同じように四聖諦の看破を独自に成し遂げられなくても、アビダンマの知識について自分なりに仮説を考えて検証していくことが大切であると説かれました。

絡まった糸を解く、プチプチを潰すといった日常的な場面であっても、
夢中になっているときは、楽しくて貪っているためにlobha-mula cittaであるが、「私」を意識していないため、Diṭṭhigata-vippayuttaであるはずだ、などと、仮説を立てることができ、先生に尋ねることで検証することができます。修行が進めば、禅定において検証し、さらに修行が進めばヴィパッサナーにおいて検証することができるようになります。

このように第5の徳から、自分の頭で考えて理解するというinspirationを得ることができます。

さて、瞑想会の終了後、1Fのスペースには、様々な素材、カラー、厚みの新型坐蒲のカバーが完成していました。
坐蒲の購入を検討されている方は、新型坐蒲も視野に入れてみてはいかがでしょうか。

参学者S

第43回水曜瞑想会

本日は水曜瞑想会に参加しました。

まずは禅師とともに30分の瞑想です。
毎週水曜日、同じ清浄な空気の中、同じ参学者の方々と座ることによって、自分の心の状態を如実に知る事ができます。

本日は瞑想後に「観想」についての伝法が行われました。四十種の修行業處はすべて観想でできており、観想の技術を正しく身につけることが、修行成就に欠くことのできない重要な鍵となるとのことでした。
大寺派仏教ではほとんど扱われる事の無いこのテーマについて、経験に裏打ちされた秘伝が惜しげも無く明かされました。

観想には、眼耳鼻舌身意の六門所縁の感受の観想と、身口意の三門における行作の観想の二種があり、それぞれの観想法について、詳細な解説をしていただきました。

詳しくは後に参学者に開示される動画でご覧になられるといいと思います。

貴重なダンマの伝法を受けたものとして、しっかりと実践をし、次の世代に伝えられるよう法友たちと精進していきたいと思います。

参学者C

第42回水曜瞑想会

本日、水曜瞑想会に参加しました。
瞑想後の法話は、無礙解道大品出入息論のBuddhoti(佛陀論)の第一回でした。

相応部経典 大篇 根相応に、信根、精進根、念根、定根、慧根の五根に関する経典群があります。
その2.軟弱品第三略説[二]に、
「比丘たちよ、これら五根を完成し円満すれば、阿羅漢である。 」とあり、
1.清浄品 十分別[二]には、
「比丘たちよ、何が信根か。
比丘たちよ、ここに聖なる弟子は信があり、如来の覚りを信じる。「これによってもあの世尊は阿羅漢、三摩三仏陀、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏陀、世尊である」と。 比丘たちよ、これが信根と言われる。 」とあります。
(mixi原始仏典コミュニティ様訳)

つまり、阿羅漢果を証悟するためには、五根を円満に完成することが必要であり、五根の一つである信根とは、《如来の悟りを信じる saddahati tathāgatassa bodhiṃ》ことと密接な関係があるわけです。
したがって、阿羅漢に通達するためには、《如来の悟りを信じる》ことが必要であるということが導き出されます。

さて、今週から伝法が始まったBuddhoti(佛陀論)は、15項目に亘り仏の福徳を詳細に分析したもので、まさに如来の悟りへの信を喚起・増強する論説といえます。

今週は、15の偈の最初の3つの伝法でした。
「仏陀の本質=誰にも教わらずに無上で最勝の四聖諦を看破する。」を随念することにより、信根を増強・増大させ、円満に完成させるための強依縁になると確信しました。

禅師のお話で印象的だったのが、修行にあたって、自分には意識を向けるが、仏へ意識を向ける人が少ないというお話でした。
自分のことを振り返ると、筋肉トレーニング的な意識でĀnāpānassati(出入息随念行)を捉えていた節があります。
筋トレは、なんの信がなくても、やっていれば結果はでます。
しかし随念は心に関することであり、まさに今、この瞬間の心が大切となるわけです。
無始の輪廻から続く煩悩を調伏するには、今この瞬間に強烈な信が燃え上がっていることが不可欠であるということが、自分にもおぼろげながらわかってきたように思います。

毎日、漫然と文字を書いていても、美しい文字が書けるようにはなりません。
文字を美しく書けるようになる為には、文字を書きながら、それなりの心の使い方が必要となるでしょう。

Ānāpānassati(出入息随念行)にあっては、《信》こそが修行を進化向上させるための心の使い方なのだろうと思いました。
信は、Kusala(善)の母といわれます。信から喚起された善心が、無始の昔から自分を輪廻へと縛っている強力な煩悩を調伏せしめ、修行者を禅定に導くのだろうと思いました。

さて、無礙解道は、サーリプッタ尊者の口伝集とされていますが、お釈迦さまはサーリプッタ尊者について、「比丘たちよ、サーリプッタはあたかも生母のようです。Seyyathāpi, bhikkhave, janetā, evaṃ sāriputto; 」というお言葉を残されています。
(中部経典141「諦分別経」)

「比丘たちよ、あなたがたはサーリプッタとモッガッラーナに親近すべきです。
〔彼らは〕同梵行者たちの資助者となる賢い比丘たちです。
比丘たちよ、サーリプッタはあたかも生母のようです。…… 比丘たちよ、サーリプッタは預流果へ、モッガッラーナは最上義へ教導します。」(光明寺様訳)

お釈迦さまが名指しでサーリプッタ尊者について、「サーリプッタに近親すべきであり、サーリプッタはあたかも母である」とおっしゃられた史実はたいへん重いと思います。
そのサーリプッタ尊者から学ぶということ、それが無礙解道を学ぶ意義であると思います。

参学者 玄沙