2018/12/5 第56回水曜瞑想会

水曜瞑想会では、まず30分、禅師と共に瞑想します。瞑想を毎日長い時間・長い期間に渡って継続することは、私には難しいことです。そんな瞑想初心者の私も、傳修院に通うようになってから毎日…ではないのですが、曲がりなりにも瞑想を続けてきて、先日気が付いたことがありました。

以前、禅師から「dosa(瞋恚・怒り)はすべてを焼き尽くしてしまう。これまで長い時間をかけて苦労して積み上げてきたものを一瞬にして失ってしまうことになる。dosaの生起には細心の注意を払うように」という内容の法話を聞いたことがあります。私は「そうか、確かにそうだ。気を付けよう」と考えましたが、しかし、その実、その時は法話の内容を今一つ自分のこととして捉えていなかったのです。私は子どものころから大人しい性格で、他人に怒りを向けることはほとんどありませんでした。むしろ、自分は他人に対して怒れないことが問題なのだと感じていました。家族でも職場の同僚でも私を怖がる人はいませんし、むしろ軽く見られてないがしろにされることが多い人間です。

そんな私でもたまに腹が立つことがあります。瞑想を続けていくに従って、そうした「たまに生起する怒り」も回数が減っていくのを実感しました。例えば身近な存在である配偶者のちょっとした言葉への怒り、自己中心的な職場の同僚の身勝手な言動への怒り、そうしたものも、瞑想を続けることで減っていったのです。

…と、思っていました。ところが、最近、日常生活でさらに心をより微細に観察するようになると、実にさまざまな場面、機会で、心に微妙なdosaが次々と生じるのがみえてきました。それは怒りとはいえない小さな嫌悪感であったり、感情になる前の拒絶する雰囲気のようなものであったり、ほんの小さな不安感のようなものであったりしますが、自分がなにかを次々と拒もうとしているのが分かります。「ああ、自分は子どもの頃から他人に怒りを示すことなどない温厚な人間だと思ってきたし、激怒してみせて人を自分の思い通りに動かそうとする人、威張って他人に対して怒鳴るような人、そんな人たちを軽蔑してきたけど、それは大きな誤りで、自分こそが常に他人に怒りを感じている人間、とても怒りやすい人間だったのだ!」と気が付きました。

これからの課題は、生起したdosaにすぐ気付き、代わりに慈しみの心を起こさなければいけないということでしょうか。そういえば、ちょうど、日曜瞑想会では禅師による慈経の講義が佳境に入ったところです。慈経のパーリ語の単語ひとつひとつを丁寧に紐解いていく禅師の講義を聴き、よく隨念することで、私にもadosa(無瞋)な慈悲の心が生まれるようになるのでしょうか。

今日の法話は、無礙解道・根論の4回目、十行相の後半の伝法に入りました。十行相の前半で五根(信根・精進根・念根・定根・慧根)はカウンターダンマによって清浄化されました。十行相の後半では、禅定によって五根を妨げるものを抑制することにより五根を活性化し、さらにヴィパッサナーによってそれを促進し、五根を陽転させることが説かれます。併せて禅師からは根(indriya)についての説明、cetasikaとindriyaの違い(たとえばsatiとsatindriyaの違い)、22ある根のなかでとりわけ五根が重要であること、そして、五根と五力の関係についてなどの詳しい伝法がありました。スタンザの解説の射程は深く四向四果にまで届きました。そして朗報ですが、これまでの無礙解道の伝法についてすべての法話を配信準備中とのことです。

さて、今日も帰り道で善友の方々と少しお話しする機会がありました。禅師と一緒に瞑想すると内面に深く入れるのでできるだけ禅師のすぐそばに坐りたいという方、ご両親の介護の負担がだんだん高くなっていくなかご自分の修行も傳修院での作務も怠りなく進める方など、お話を伺っていて非常に感心しました。自分はあまり社交的ではないためこの様な機会も少ないなか、傳修院に通うことで得難いご縁がいただけて嬉しいです。徳分のある方々はさらに積徳のため精進されるものだと感じ入りました。

参学者SA

2018/11/28 第55回水曜瞑想会

水曜瞑想会は、日々の喧騒から離れて瞑想に専念できる貴重な機会です。
本日は30分の瞑想終了後、無礙解道の根論・十行相についての伝法がありました。

五根(信根・精進根・念根・定根・慧根)にはそれぞれAkusalaのcounter dhammaがあり(不信・懈怠・放逸・掉挙・無明)、誓願や前行を通じてこれらの不善法を徹底的に抑制することが、五根を清浄化する第一歩となります。対立する不善法の抑制を続けるうちにその土壌に五根が発芽し、育ち、次第に対立不善法が生起しにくくなります。

一般にKusalaはどこまでも広がる性質を持っています。Mettāでは対象の領域が道場、街、国、地球、宇宙とどこまでも広がっていき、Nekkhanmaでは、単に手放すだけではなく、一切の所有権を放棄して一切有情と分かち合うまでの広大な心に成長していきます。同じように、各五根はどこまでも広く深く大きくなっていく質を持っています。

精進根では、絶対に怠けないと誓願をして、1〜2日寝ないで続けられる程の圧倒的なエネルギーが出るまで高めることが求められます。

念根については、Tatramajjhattatāを母親とし(※1)、Paññāをパートナーとし、HiriとOttappa(※2)を呼吸して初めてSatiとなります。「雑念!」と念じて雑念を撃ち墜とそうとするのは不善思考であってSatiではありません。

※1 あるがままに受け入れることがSatiであり、その清浄化にはTatramajjhattatāが不可欠です。
※2 念根のcounter dhammaである放逸(Pamāda)は、AhirikaとAnottappaが前面に出ている不善法を指すため、HiriとOttappaが必要です。

定根については、粗雑な五蓋が抑制されていても、微細な掉挙(Uddhacca)が残っている場合が多く、掉挙を徹底的に断じる必要があります。Passaddhi(軽安)で心を平安にすることが役に立ちます。

慧根については、 自分の身の回りのことについて、無常・苦・無我・不浄を何度も何度も随念することによって、常住・常楽・実体・浄美の顛倒見を砕破していく必要があります。

とてもレベルの高い内容ですが、今の自分にできるレベルで随念を行い、基礎固めをしていきたいと思います。

参学者 S

2018/11/21第54回水曜瞑想会

今日は水曜瞑想会がありました。
30分の瞑想の後、休憩を挟んで本日の伝法が行われました。
前回の講義で無礙解道論の入出息論が終わり、今回からは根論の解説が始まりました。

五根の均衡は禅定の証悟に不可欠であることはよく言われていますが、根論では各レベルの証悟に必須となる、五根を活性化・陽転させていく方法について、経典に基づいて詳説されています。

善き人、善き言葉、善き法に近づき、不善を遠ざけ、不善を見ず、また不善法から離れることによって自己の善き性質を強めることができます。

未熟で未だ心を制御できない修行者は、不善に汚染されやすいので、信なき人、懈怠の人、放逸の人、その人の語る言葉から離れることが必要であり、逆に信清浄の人、精進の人、不放逸の人やその人が語る言葉に近づき、その言行を心に留めることにより、自身の善き傾向性を育てていくことができるでしょう。

傳修院では、数週に一度の間隔でリトリートを行なっています。世間から離れ自己の制御に努めることは、たとえ数日間という短い期間であったとしても、善き傾向を育てる絶好の機会です。時間を無駄にせず一心に努めていきたいと思います。

参学者C

2018/11/14 第53回水曜瞑想会

秋も少しずつ深まってきて、今週は会社を出ると寒さすら感じる中いつものように水曜瞑想会に参加できることにほっとして感謝しながら電車に乗りました。

さて、無碍解道論のアナパナ第四行の解説も一応今回で一区切りということで今日の講義は今までのまとめのような形で解説が行われました。
土曜のリトリートの回もあるので入出息論の伝法はすでに40回を超え、欠席している回もあるため、このような形で再び解説していただけると欠席した分も少し補うことが出来てとても助かります。

Kāyasaṅkhāraのほんとうの意味、satiの現起からpaññāの生起、四念処法の身随観、ヴィパッサナーの俯瞰的な解説、四善修習、戒定慧、八正道…とアナパナ修行には仏教修行のエッセンスが詰まっていると改めて感じた次第です。

今、日々目指している境地から、遙か彼方の境地までアナパナ修行の奥の深さに改めて感じ入りました。

大事なのは伝法されたダンマを少しずつ自分の修行に組み入れていくことです。
学んだことを少しずつ覚えて随念して最終的には文字は捨て去ることです。

さて、自分の場合、当面の目標はもっと専注を深めることですが、初心者レベルから阿羅漢証悟のレベルに至るまで、修行はこのように進んで行くのかと、修行の道程をここまでくわしく知ることが出来る機会はこの水曜日の無碍解道の講義しかないと思います。
また夜の講義というのも、日曜とは一味ちがう独特の趣があり、何とも言えません。

現在、自分を取り巻く状況・環境については、苦を感受することが徐々に増えていますが、苦しいながらもそれなりに円満に生きていけているのは間違いなく仏教のおかげです。
瞑想もいろいろ工夫しながら徐々に学んだことを取り入れていきたいと思います。

今日改めて思ったのは自分が20年以上続けている肉体のトレーニングに似ている部分があるのかな、ということです。先ず学び、それを実践し、さらに工夫して改善する、というプロセスは、何を身につける場合でも必要なことだと思います。で、瞑想歴は2年ちょっととまだまだ浅い私ですが、修行についても同様に、学び、実践し、工夫し、改善しながら、禅師のおっしゃるように、瞑想修行の螺旋階段を登って行きたいと思いました。

ところで話は変わりますが、日曜日に善友の有難いお誘いがあり森のホールの松戸市博物館にて催されているガンダーラ仏教美術展に行って参りました。
ゴータマ王子時代のお釈迦さまから般涅槃に至るまで様々な仏像、仏頭があり、またアショーカ王の碑文の拓本など非常に興味深く拝見しました。特に仏頭は禅師に頂いたブッダニミッタにどことなく似ていて立体なので横から、上からと様々な角度からじっくり見入ってしましました。
発掘には京都大学がかなり貢献しているというのも初めて知りました。
展示自体はもうすぐ終了してしまいますが、また同じような催しが行われたら是非行ってみたいと思います。1500年~2000年前この仏像を作った人の思いは如何ばかりかと想像すると菩提心が掻き立てられます。
帰りの電車もいつもと違った不思議な感覚でした。

参学者N

2018/10/17 第49回水曜瞑想会

数年前のことですが、何かと不安になりやすく悩みごとの絶えない私は、そうした自分自身を少しでもラクにする手段はないものだろうか、と常に考えていました。そうした中で現在も流行中のマインドフルネスを知り、興味をもって調べていくうちにマインドフルネスの源流に南伝仏教の「ブッダの瞑想法」があることを知ります。

「仏教の瞑想といえば、坐禅じゃないのかな? どんなものだろう?」と、興味をもった私は南伝仏教についての本を読み様々な法話会、瞑想会に参加しました。

最初の心づもりとしては、ちょっと南伝仏教の瞑想についてかじったらマインドフルネスの勉強に戻ろうと考えていました。ところが幼少の頃から宗教が好きだったこともあり、さらに南伝仏教のお坊様方がとんでもなく魅力的な方々ばかりということもあり、とうとうマインドフルネスに戻ることはなく現在に至ります。

南伝仏教のお坊様方の素晴らしさについては、当時このように考えていました。まず、悩みをもった人々への説法の場では、世俗的な悩みでも哲学的な迷いでも、とにかくどのような質問でもパーリ仏典に基づく仏陀の知恵で気さくに答えてくださる。さらに、法話だけではなく、バリエーションはありますが瞑想の仕方を教えてくださるのです。つまり現実的、実践的に悩みを解消するツールを与えてくださる。しかも多額のお布施を強要するということはない。ないどころか要求すらしない! なんと素晴らしいことでしょう。日本にたくさんある大乗仏教のお寺やお坊さんがやるべきことはこれではないのかな。そのように感じ、南伝仏教に惹きつけられたわけです(もちろん、現在では日本のお寺やお坊様も様々な取り組みをされていることを承知しています)。

仏教的な考え方や瞑想の実践は、多少なりとも私の心に安穏で静寂な時間をもたらしてくれました。

さて、今日の法話は「無碍解道入出息論 三十二作念智」の「短入出息」及び「遍身出入息」についてです。
今回は、まさに瞑想法アナパナサティについて、それを修習しようとする誰もが疑問に思う点についての伝法でした。

アナパナサティ・スッタで「長い息を吸っているときは〜」からはじまるスタンザにおいて、一行目と二行目の「長い息」「短い息」とは? 「長い」「短い」の基準はあるのか? 「長い」息と「短い」息を決めたとして、では具体的にどのように修習すればよいのか?

また、三行目の「Sabbakāyapaṭisaṃvedī~」のSabbakāyaとはなにを指すのか? 身体全体のことなのか、それとも呼吸自体をKāyaとみて息の全体を感知することなのか?

こうした点について、サーリプッタ長老の説示とされる無碍解道では具体的に記述されており、それを禅師が明解に紐解いてくださいます。説明に際しては、アビダンマによる豊かな肉付けもあり、その伝法は明解でありながら大変詳細なものでもありました。

傳修院からの帰り道、法友の方々との第一声は「今日(の法話)はすごかったね!」でした(思い起こすと毎週そう言いながら帰っているのですが)。
理解するだけではなく、さっそく自分の瞑想の修習に取り入れていきたいと思います。

参学者SA

2018/10/10 第48回 水曜瞑想会

本日は水曜瞑想会でした。静謐な雰囲気の中で禅師や善友と共に瞑想をすることができる貴重な機会です。

瞑想後の法話は、無礙解道論です。今月からいよいよ、四念処の最初に書かれているānāpānasatiについての解説が始まり、心躍ります。

本日は、先の土曜日に開示された「長入出息の九行相」の復習から始まりました。アナパナサティの十六行のスタンザは各行が入息と出息から成り立つため、実質的には三十二行から成り立ちます。九行相は、その三十二行の全てに当てはまる修行のポイントであるため、特に重要であるとのことです。

禁他見のため詳細は省略しますが、最初の三行相は以下のとおりです。

①長い入息とみなした長さいっぱいを正念正知をもって出息する。
②長い出息とみなした長さいっぱいを正念正知をもって出息する。
③長い入出息とみなした長さいっぱいを正念正知をもって入出息する。

ここでは、呼吸の長さではなく、呼吸の長さいっぱいを観察しながら感受していくことが大事であり、単に呼吸の一部を捉えて「入息」「出息」とラベリングするものではありません。

次の三行相は以下のとおりです。

④Chanda(志欲)が生じて、さらに微細に なった長い入息について(以下、①と同じ)。
⑤Chanda(志欲)が生じて、さらに微細になった長い出息について(以下、②と同じ)。
⑥Chanda(志欲)が生じて、さらに微細になった長い入出息について(以下、③と同じ)。

最後の三行相は以下のとおりです。

⑦Pāmojja(勝喜)が生じて、さらに微細になった長い入息について(以下、①と同じ)。
⑧Pāmojja(勝喜)が生じて、さらに微細になった長い入息について(以下、②と同じ)。
⑨Pāmojja(勝喜)が生じて、さらに微細になった長い入息について(以下、③と同じ)。

以上の九行相がアナパナサティの骨組みであると説示されました。

さらに進むと、Cittaの所縁が長入出息から退転するという現象が生じ、そこにTatramajjhattatā(中捨)が確立し、Upacāra-samādhi、Appanā-samādhiへとCittaが導かれていくと説示されました。以上が前回までの復習です。

次に本日のテーマであるSati Upaṭṭhānaの解説です。
Sati Upaṭṭhāna(念の現起)とは、Kāya(入出息と触)を感受・観察するレベルの念と、慧根と結びつき活性化した鋭い念(正念正知)との二段階の現起があることが開示されました。また正念正智によってKāyaを随観することが四念処法となると説示されました。

引き続き、Anupassanā(随観)の概説がありました。
無礙解道のこの部分はVipassanāの解説ではあるものの、修行法を俯瞰する上で役に立つため解説をいただくことができました。
四念処法は、禅定修行から観行、道果智の証悟に至るまで、螺旋階段状の構造になっており、Bhāvanāもまたそのように修されるとのことです。

例えば、Iriyāpatha(威儀)の「比丘は歩いている」を例にとると、
初心の修行者であれば、メタ認知のように「私は歩いています」「私は前に右足を出しています」などという行動認知の段階からはじめる必要があるかもしれません。

しかし実際のVipassanāの段階に至れば、先ず「歩かん」とのCetanāが生起し、実行するChandaが生起し、同時に生起するCittaがKāyaviññattiを生起させて、自分の足を中心とするKāyaが今の場所で消滅して次の場所で生起する、というプロセスの繰り返しによって歩行が成立していることを観察し、そこに関わるすべてのCitta、Cetasika、Rūpaの生起消滅を明確に識別し、そこに内在する無常性・苦性・無我性を随観していきます。

Ānāpānaを禅定修行として修習しているのであれば、先の無礙解道論の解説のとおり、ChandaとPāmojjaにそって修行していけばよいわけです。

しかしVipassanāの段階のĀnāpānasatiでは、Kāya(入出息であるCittaja rūpaとPoṭṭhabbaの三種のMahābhūta-rūpa)について生起消滅を明確に識別し、そこに内在する無常性・苦性・無我性を繰り返し随観し、常住・常楽・実体という謬見を砕破するべくVipassanāを何度も修習していきます。

この二つの別の段階を混ぜて、Pāmojjaの歓喜を否定して、これは苦である、と観察することはもちろん誤りであり、禅定修行とVipassanā修行を決して混ぜてはいけない、ということを重ねて注意されました。

参学者S

2018/10/03 第47回 水曜瞑想会

本日は水曜瞑想会に参加しました。心地よい静寂の中、30分間の瞑想では、先日のメディテーション・ワークショップで学んだ調身・調息からじっくりと瞑想に入っていき、あっという間に終了の鐘が鳴りました。

続いて無礙解道の伝法です。今日から大念処経、安般念経に記されているアナパナサティのスタンザの解説が始まりました。

本日は前文の「森、樹下、空き家にて結跏し、身を真直にして念を現前に置き正に入出息する」という部分の読解でした。原文のパーリ語を1つ1つ参照しながら丁寧に解説いただいたのでとてもわかりやすかったです。

個人的に感銘を受けたのは「アナパナサティの対象であるTouching Point(呼吸が皮膚に接触する点)は禅定への入り口」ということです。
その大切な入り口を瞑想中に容易に見失ってしまうのは、接触点に対して念をもって専注するべき「心」が、専注を離れて移ろってしまうからだ、と感じました。決して見失わないよう修習を深めていきたいと思います。

次回の伝法は来たる土曜日、托鉢会の後のリトリート伝法となりますが、アナパナサティ修行者にとって最も馴染みのある「長い息を吸いながら…」のスタンザの解説に入っていくとのことなので、とても楽しみです。

参学者C

第46回水曜瞑想会

冷たい雨の中を水曜瞑想会目指して歩きます。住宅街の夜の暗がりに傳修院をみつけると瞑想室の窓にほんのり明かりが灯っているのがみえました。その暖かな明かりをみてなんだかホッとしたような気持になります。水曜瞑想会はまず30分の瞑想からスタートしますが、心から安心して坐れる場所がある、ということはありがたいことだと毎回実感します。安心して坐ることができる場所だと瞑想の質が違うように感じますし、瞑想後の余韻も気持ち良いものに感じられます。

本日の法話は無礙解道入出息論 Lokoti(世間論)です。お釈迦様の世間における役割について説かれたものとのことです。

禅師が以前おっしゃられたように、瞑想前にお釈迦様の徳について隨念することは非常に大切なことのようです。お釈迦様の智慧、お釈迦様の慈悲、お釈迦様の清らかさなどを自分の内に想うことで自らの中にそうした智慧、慈悲、清らかさが育っていくように私にも少しだけですがそのように感じられます。

…ところが、このことにともなって最近よく考えるのは、実は私はお釈迦様のことをよく知らない、という事実です。

確かに、私は子どもの頃にお釈迦様が主人公の絵本をみていた記憶がありますし、神社仏閣が大好きで以前は浅草寺、川崎大師、成田山新勝寺などのお寺に月参りしたり、禅寺の坐禅会に参加したりしていた時期もありました。
般若心経や観音経、維摩経といった御経に関心を持ち解説書を読んだり、仏像が好きになって博物館の仏像展を見に行ったりもしました。ですから、自分は仏教を少しは知っているのだと思っていたのです。
しかし考えてみると、私は仏教をお説きになった肝心要のお釈迦様のことをよく知らないのです。
お釈迦様よりは、空海や白隠の業績の方を詳しく知っているかもしれません。パーリ経典はそのほんの一部分しか読んだことがありません。「信」という点でも釈迦如来像より観音様や不動明王に親近感を抱いてお祈りしていました。

お釈迦様とはどのような方だったのか…。
そこで、現在は原始仏教関係のお釈迦様に関する書籍には努めて目を通すようにし、禅師からいただいた佛陀ニミッタは常に持ち歩いて折に触れ心にとめるようにしています。そして、この水曜瞑想会の法話では前回までの佛陀論、今回の世間論ともにお釈迦様がどのようなお方なのか、どのような徳をお持ちなのかが分かり、大変有益だったと感じます。

傳修院の参学者の方でインドを旅され佛陀の聖地を巡礼された方がおりますが、古の精舎跡で瞑想することによってもお釈迦様とそのお弟子たちの息吹を感じることができるとのことでした。もちろんその方は高い境地をお持ちの方ですが、私もできるだけお釈迦様を自分の内に感じることができるよう努めていきたいと思います。

無礙解道Lokoti(世間論)の解説は今回一回で終了ですが、無礙解道には短いながら素晴らしい内容のスタンザがたくさんあるとのことで、すべてでなくともその短いフレーズ(パーリ語と南伝大蔵経の訳文)だけでも覚えるのがよい、と禅師よりアドバイスがありました。私も少しずつでも前進できるよう精進したいと思います。

参学者S