3/18ウポサタ傳修会

瞑想には大敵の花粉症の季節真っ只中ですが、週に一度の大切な瞑想会。
昨日から少し気温が低いせいか、症状が治まったまま参加できるのは幸いなことです。

 

今日のアビダンマの講義は、二十四縁起の8番目、Nissayapaccayo(依止縁)についてでした。

最初は恒例の暗記の披露からスタート。最近は必ず何人かの方が手を挙げます。
皆スラスラと、まるで長年慣れ親しんだ詩のように暗唱していきます。
自分はまだゆっくり唱えることしかできませんが、重い腰を上げていざ取り掛かってみると、似たようなフレーズが何度も出てきて意外と覚えやすい、というのが正直な印象です。これからは内容の理解をもっと深めていければと思います。

講義はまず、Nissayaの日本語訳である「依止(えじ)」という言葉の説明から始まりました。
「依止」とは「依託止住」の略だそうです。「依託止住」とは「依存して全てを託してそこに止まり住する」ということで、つぶさには、① あるものが生起するときの拠り所 ② 三帰依のSaraṇa ③ Cittaの生起の基であるKāya ④ Nissaya修行 という四つの意味があるとのことでした。
NissayapaccayoのNissayaの場合は①の意で、ある現象が他の現象の生起を支えるような縁起関係を意味します。

NissayapaccayoのStanzaの前半を見て、なんか見覚えがあるなと思ったら、Sahajātapaccayoや、Aññāmaññāpaccayoと同じパターンでした。二十四縁起では、たとえばSahajātaであり、同時にAññāmaññāであり、同時にNissayaであるというように、現象と現象との関係を複数の縁起で観ていくのが特徴のひとつであるというお話でした。
今日の講義で、Pasādaの役割や、PasādaとCitta/Cetasikaの関係がだいぶクリアになりました。
ただし最後のStanzaは暗記に少し苦労しそうです。

休憩をはさんでダンマに関する質疑応答が行われました。
最初は修行における暗記に関するお話でした。
まずダンマを暗記し、その内容を理解し、さらに随念して自分の心に刻み込む、
そうすれば、本やテキストから解放され、もはや誰も取り去ることができない自分自身のダンマとなる、
そして内外に生起する現象をそのダンマに当てはめながら観ることによって、自分自身の体験としてダンマを深く理解していく、
その時、心は素晴らしい法悦に席巻される、
たとえダンマパダの一行であったとしても、そのダンマを自分自身のものにすれば、
何百冊の仏教書にも優る「法悦」をもたらしてくれる、とのことでした。
暗記は法悦に至る道である! いつものように私の心は鷲掴みにされました。

今日の最後は、Saddhāをベースにして輪廻を厭うというお話でした。私にとっては目から鱗で、凡夫たる自分はどうしても「私」の視点から輪廻を考えてしまうのでとても参考になりました。

体調を崩していたOさんも久々に参加され、実り多き一日となりました。
講義が終わった後で、一杯のお茶を飲みながら法友と語り合うひとときは、時間に追われる日常の中での貴重な一服の清涼剤となっています。
心ゆくまでダンマを味わって、リフレッシュした心で新しい一週間を始められる、これもまた瞑想会のおかげです。
禅師、傳修院の皆さま、ほんとうにありがとうございました。
水曜のセミナーも楽しみです。

参学者N

第18回托鉢会

托鉢会に参加しました。

この会は比丘に食事をお布施出来る貴重な機会であると同時に、修行者として食事とどう向き合っていくべきなのか深く随念する機会でもあります。

食に対する渇愛というのは根が深い問題であり、ブッダは「体の維持に必要な量だけ食べよ。」と様々なお経で口酸っぱく説かれています。

実際必要な量に注意して食べているとある時点で「体としては十分だがもっと食を楽しみたい!」という欲望があることに気づきます。

この欲の意のままになると修行者として根絶すべき煩悩を増大させることになるだけでなく、消化に負担がかかり健康にも良くないのは明らかです。

今回も心のこもった食の渇愛には危険な(笑)美味しそうなメニューが並びました。フキのとう、菜花を使用した春らしいメニューも見られます。

四資具の食に対する随念、食厭想のお唱え言をして食に対する渇愛を抑制した後に静かに食事をいただきました。

普段もそうですが、特に道場で食事する際は渇愛で食べないよう十分注意していきたいです。

参学者C

第49回原始仏教トーク

本日の法話を拝聴し、清らかな信というのは、得難きものだと思いました。

これを受けて1つ思い出したことがあります。
2016年、「将棋ソフト不正使用疑惑」というものが起こり、将棋の三浦弘行九段が対局において、スマートフォンを用いたカンニングが疑われました。
第三者委員会の調査により、疑惑の根拠の証言が、そもそも偽証だったことなどが明らかになり、三浦九段は、潔白と判明したのですが、まだ、そういった真相が不明な時期に屋敷伸之九段のコメントが印象に残っています。

「真相が全くわからないのでコメントしようがない。
個人的には三浦九段の人間性もわかっているので、不正をやるようなことはないと思う」。
(2016年10月27日朝日新聞)

「真相が全くわからないのでコメントしようがない」でコメントが、終わるのが普通だと思います。
私も、屋敷九段のような状況に追い込まれ、コメントを求められたら、こういったコメントをする可能性はあると思います。
しかし、屋敷九段は、続けて、「個人的には三浦九段の人間性もわかっているので、不正をやるようなことはないと思う」と表明しました。
屋敷伸之九段は、三浦弘行九段の人間性を信じたわけです。
私はこのコメントに、屋敷九段の同僚に対する「信」を感じました。


本日の原始仏教トークでは、「信(Saddhā)」には、幾つかのレベルがあるというお話でした。
そして、上記のお話は、1番目の「信を置く」とか2番目の「信用する」というレベルでまだ、Saddhāの本領というか、Saddhā Cetasikaが生起するレベルでの信ではないとのことです。
しかし、自分が三浦弘行九段のような窮地に陥った際に、どのくらいの職場など周りの人が、「あなたはそんなことはやらない人だ!私は信じる!」となるのかを思うと、上記のような「信」でも世間ではなかなか尊いものだと個人的には思います。
それでは、お釈迦さまが説かれたCetasikaレベルのSaddhāとは、何でしょうか。
以下に経典を引用します。

Vitakkavicārānaṃ vūpasamā ajjhattaṃ sampasādanaṃ cetaso ekodibhāvaṃ avitakkaṃ avicāraṃ samādhijaṃ pītisukhaṃ dutiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati.

「尋と伺の寂止のゆえに、内なる浄あり、心の一境性あり、尋なく伺なく、三昧より生じた喜と楽ある二禅に達して住し……」
(長部経典22 大念処経
光明寺様訳 http://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c09.htm)

禅師のお話によると、第二禅定で、踏ん張っているわけでもないのに、心が集中すべき対象に専注できるという不思議な体験を目の当たりにするとのことです。
それの圧倒的な体験によってBuddha Dhammaに対して絶大な清らかな信が生起する。
その清らかな「浄信」がsampasādanaṃということらしいです。

Saddhāの性情として、「輪転王の魔法のエメラルドの比喩」が印象に残りました。
どんなに濁った水でもその魔法のエメラルドを浸すと、濁った水が美しく清らかなものになる。
まさにそのように、Saddhā(信)というのは、心に生起すると、心の穢れが浄化され、疑念や疑惑、不善な濁った心が雲散霧消。霧が晴れたように清らかなものにものになる。
そのようなものだとのことです。

しかし、私が今まで学んできたテーラワーダ仏教(大寺派仏教)のSaddhāとは、
・Amūlikā saddhā(アムーリカー・サッダー 根拠がない信仰)中部経典95 チャンキン経
・Ākāravatī saddhā(アーカーラヴァティ サッダー 可能性が高い信 )中部経典60:無戯論経
あるいは、
・増支部三集五品カーラーマ経
など、
「Saddhāとは根拠のあるものを信じる科学的な信」とか
「○○だからと言って信じてはいけない」といったものでした。
しかし、マハーカルナー禅師によれば、それは経典の文脈を無視して、一部だけ切り取った誤った解釈だとのことでした。
例えば、カーラーマ経ですが、まずこれはあるバラモンに説かれたものです。
そして、バラモンが「いろんな人がいろんなことをいい。だれが本当かわからない」と言う。
それに対して、ブッダが、「さまざまなの宗教の経典など、全部鵜呑みにしないで、自分で、Kusala(善)かAkusala(不善)か確かめましょうね」
と言って、遠回しにバラモンの信を傷つけずに、仏道の世界に誘っている経典とのことでした。
確かに、ブッダの教えは対機説法。
あるバラモンとのある状況を受けての、「信じるなかれ」の教えをあらゆる場面においてあてはめるのは、問題があると思いました。
Amūlikā saddhā、Ākāravatī saddhāについても同様で、Saddhāという言葉は使っているものの、これはSaddhā CetasikaというParamattha Dhamma(究竟法)レベルの話でなく、世俗諦の信用レベルの話で、世俗諦の信用レベルの「信用に根拠がある/ない」という話を、Saddhā Cetasikaにまであてはめるのは、誤りであるとのことでした。

マハーカルナー禅師の言葉で印象に残った言葉で、
「仏教のすべてはSaddhāがあって初めて是認される」
という言葉がありました。

私は、以前から、一部のテーラワーダ仏教(大寺派仏教)になんとなくあまりよくない意味でドライな感覚、殺伐とした感覚を受けていました。
そのドライな感覚を説明すると、昔、「アッシー君」という言葉がありました。
女性が男性に対し、「終電とかで電話したら車で迎えに来てくれるから、便利だからとりあえずつきあっておくか」という感覚でつきあいます。そのお迎えに来るだけの男性を指し「アッシー君」という単語がありました。
この人間の「便利だからとりあえずつきあっておくか」という感覚。
これは打算ですが、この感覚に、なんとなく、人間の持つ殺伐としたドライさを感じていました。
そして、一部のテーラワーダ仏教(大寺派仏教)にもなにか、これに通じるドライさを感じていました。
最近、ラーマクリシュナの本を読み、温かい「ハート」を感じ、「そうか、欠けていたのはこれだったのか!」という発見がありました。

このドライな感覚の原因。
心胆を寒からしめるような感覚の原因。
殺伐とした感覚の原因。

今にして思えば、禅師のおっしゃる純粋なSaddhāの欠如だったのかもしれません。
そのようなことを最近思っていたので、
「仏教のすべてはSaddhāがあって初めて是認される」
という禅師に言葉が個人的にことさら重く響きました。

sampasādanaṃ。浄信。濁った水が、魔法のエメラルドで美しい清浄な水になるように、濁った心が清浄になるようなSaddhā。
これは、いわゆる「Ākāravatī saddhāーAmūlikā saddhā解釈」「カーラーマ経解釈」の延長線上に、あるかと問われた時、「確かにその延長線上にはない……」と感じました。

そして、Saddhā自体は無条件的な信であるが、Saddhā自体はPaññindriya(慧根)とバランスをとるという教えがあります。
これは、アビダンマなどDhammaを勉強することによって、Saddhāの方向性が正しいものに是正されていくということだそうです。

禅師のご法話を拝聴し、自分が長年感じていた、ドライな感覚、殺伐とした感覚の原因がわかったような気がします。
鍵は、Saddhā であると思います。
少しずついい方向に進めるように、随念などで、自分の中のSaddhāを育てていこうと思います。

参学者
筆名:玄沙師備

原始仏教トーク第48回

本日の原始仏教トークのご法話は、昨日、買って読んでいたラーマクリシュナの本とメッセージが被るところがあり、Synchronicityを感じました。

以下引用。

奉仕の道と無私の行為―世を助けること

「あんたのやっていることは善い仕事だよ。もし”オレ”がやっているんだ、というウヌボレを捨てて無私の心ですれば、そうすりゃすごく善いことだ。無私の行いを続けていると神様に対する信仰と愛が増してくる。無私の行いを続けているうちに神をつかむことができるよ。」

「あんたが慈善の仕事をするのは、本当はあんた自身のためになるんだよ。オレがしてやっているんだ、というウヌボレを捨てて、無私の心でそうしたことができるようになると、心が清まってきて神への愛がだんだん深まってくる。そして、あの御方(引用者註:神)をつかまえることができる」

引用終わり。
マヘンドラ・グプタ (著),‎ 田中 嫺玉 (翻訳) 『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉(コタムリト) 第一巻』ブイツーソリューション p.176-177

二番目の文の「神への愛がだんだん深まってくる。そして、あの御方をつかまえることができる」を「仏道修行を進ませることができる」と書き換えれば、概ね本日の、原始仏教トークの内容となります。

禅師のお話ですと、まず、修行の階梯として、
「信愛(Love)→奉仕(Devotion)→放棄(Surrender)」
のプロセスがあり、それらを行う意図(Intention)として、自利心、利他心、離見心があるというお話でした。
どの心も悪いものはない。
自分が死後、善い再生を得たいという自利心も決して悪いことではないが、自利心と(自利ベースの)利他心は、上記の「信愛(Love)→奉仕(Devotion)→放棄(Surrender)」という階梯を進む上で限界が生じてくるというお話でした。

禅師の言葉で印象に残ったのが、奉仕の心構えとして、
”not in my way, but in your own way”
(私の方法ではなく、あなたの方法で)という言葉でした。
また、「御心のままに」という言葉もありました。

私の体験として、年末から、仕事上で、仕事先の人とぶつかり、ストレスを感じていましたが、
先輩格の人に、相談したところ、「お客さんだから、素人だから」というようなことを言われ、たしかに、自分の考えたやり方や考え”in my own way”を相手にぶつけていたと反省しました。
なるべく相手の意向通りというスタンスにしましたら、精神的にも楽になったので、上記の言葉には腑に落ちる面がありました。

話を戻しますと、離見心とは、「オレが」「オレが」とか「私」「あなた」という境界線が消えた心とのことです。
上記のラーマクリシュナの言葉でいいますと、「<オレ>というものが消えた無私の心」なのかもしれません。
慈悲の行や、Ānāpāna Satiなどで、心が善なる心に満たされて、静寂になる。
そして、清らかな心に満たされ、まるでお釈迦さまと一体感を感じるような心―それが離見心とのお話でした。パーリ語で言えばNekkhammaに相当します。
そのような心で行えば、「信愛(Love)→奉仕(Devotion)→放棄(Surrender)」のプロセスをなんの限界もぶつかりもなく、進めていくことができるというお話でした。
そして、離見心という心の鍵となるのが、Saddhā(信)、Aspiration、
Samādhi(定)ということでした。
道元禅師にも、「学道はすべからく吾我をはなるべし」(『正法眼蔵随聞記』(ちくま学芸文庫)p.358)という言葉がありますが、この「我を離れる」というのは、
俗な話では、「我を捨てて仕事しろ」とか一般企業などでも聞く話です。
ブラック企業などでも聞く話です。
しかし、禅師のお話では、Saddhā(信)を置く対象、「御心のままに」という対象は、誰でも良いわけではなく、仏法僧などの善なる清らかな対象や、世俗であれば自分が学びたい上司などというお話でした。

離見心の鍵となるSaddhā(信)ですが、次回の原始仏教トークのテーマが、Saddhāだそうです。
上記のラーマクリシュナの本で、

「ハリ(ヴィシュヌ神の一名)や、ラーマ(ヴィシュヌ神の化身とみなされている古代の英雄。ラーマーヤナの主人公)の名を、一度でもとなえたら、たちまち体中の毛が逆立って涙がこぼれる」(p.73)

というSaddhāの描写がありましたが、
私も現在あまりSaddhāについてよくわかっていません。
理由として、私個人の問題以外に、
①戦後の唯物論的、無神論的教育
②新興宗教などによる「信仰」についての悪いイメージ
③分別説部の流れを組む論師による「Saddhāは、根拠のある条件付きのSaddhāである」という説(増支部カーラーマ経、スッタニパータの「信仰を捨てよ」、中部経典60無戯論経 ākāravatī saddhā根拠のある信 を根拠としてもの)
など、「Saddhāをわからせないように、Saddhāをわからせないように」という、Saddhāをわからせないような社会的な条件付けがあるように個人的には、思います。
そのため、ラーマクリシュナがおっしゃるような「たちまち体中の毛が逆立って涙がこぼれる」「体中が善なる清らかな心に浄化される」ようなSaddhāがピンとこない状況ですが、
ラーマクリシュナが「大実母カリー!」という圧倒的なSaddhā、神への愛が、あったのと同様に、ブッダと同時代に生きた弟子、尊者の方々も「お釈迦さま!」という圧倒的な清浄なるSaddhāがあったはずとは思っています。

今回の離見心の法話の理解を深め、
また、そういった不信、疑念に決着をつけるべく、
次回3月3日の原始仏教トーク第48回『Saddhā 仏教の信を科学する』を拝聴したいと思います。

(参学者)筆名:玄沙師備

1月28日日曜傳修会

気温、2度。凍てつくような寒さと曇った空。
前日、何故かなかなか寝付けなかった私は起床を少し遅くしたため,いつもの90分瞑想は途中からの参加。既に数名の参学者が瞑想されていました。

この寒さのせいか、隣家の屋根にはまだ先週降った雪が残っています。
アビダンマ講座が始まる頃にはいつも通り満席状態。参学者全員のアスピレーションが伝わってきます。

アビダンマは引き続き二十四縁起の中伝、Anantara-paccayoの三回目。前回同様、既に暗記し終わっている参学者がスラスラ唱える様を見て暗記が遅れている自分は少しずつでもいいからコツコツやらなければと、これは参学者たる者の義務であると改めて決意しました。

まとめのdiagramはここでしか学べない得がたきものです。一つ一つの項目は各stanzaに相応していて、⇛に込められた意味・内容の深さに感じ入りました。
まだvīthi の途中を学んでいる自分にとってはレベルが高く付いていけない事も多いですが少しずつ理解を深めていきたいです。

続いて休憩を挟み修行報告の時間。
中でも特にスポーツや食事、健康のについての法話が印象深かったです。
「No games, just sports」というフレーズを聞いて、自分が長年持病の治療と予防を兼ねてひたすら続けてきたジョギングや筋トレ、数年前から取り入れた体幹トレーニングなどは間違ってなかった、と安心しました。持病への対策が結果として仏教修行の準備になっていたのかな、と何だか救われた気持ちになりました。

食事については、修行するようになって酒、煙草を止めてからつい甘いものに手を伸ばしがちにがちになっていたので、対象が変わっただけでRasa-taṇhāはそのままだから気を付けないと、とコントロールの必要性を感じました。

最後に睡眠については、タイムリーというかここ数日、睡眠とAkusala(特にDosa)、睡眠と瞑想の関係について考えて、試していたところだったので、やはりもう少し増やして7時間、それも質の良い7時間の睡眠が理想かな、と思いました。

他にも1日1随念など貴重な法話を拝聴でき、またまた今回も得るもの多き1日となり明日からのエネルギーもしっかりチャージして帰途につきました。
ありがとうございました。

参学者N