原始仏教トーク第48回

本日の原始仏教トークのご法話は、昨日、買って読んでいたラーマクリシュナの本とメッセージが被るところがあり、Synchronicityを感じました。

以下引用。

奉仕の道と無私の行為―世を助けること

「あんたのやっていることは善い仕事だよ。もし”オレ”がやっているんだ、というウヌボレを捨てて無私の心ですれば、そうすりゃすごく善いことだ。無私の行いを続けていると神様に対する信仰と愛が増してくる。無私の行いを続けているうちに神をつかむことができるよ。」

「あんたが慈善の仕事をするのは、本当はあんた自身のためになるんだよ。オレがしてやっているんだ、というウヌボレを捨てて、無私の心でそうしたことができるようになると、心が清まってきて神への愛がだんだん深まってくる。そして、あの御方(引用者註:神)をつかまえることができる」

引用終わり。
マヘンドラ・グプタ (著),‎ 田中 嫺玉 (翻訳) 『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉(コタムリト) 第一巻』ブイツーソリューション p.176-177

二番目の文の「神への愛がだんだん深まってくる。そして、あの御方をつかまえることができる」を「仏道修行を進ませることができる」と書き換えれば、概ね本日の、原始仏教トークの内容となります。

禅師のお話ですと、まず、修行の階梯として、
「信愛(Love)→奉仕(Devotion)→放棄(Surrender)」
のプロセスがあり、それらを行う意図(Intention)として、自利心、利他心、離見心があるというお話でした。
どの心も悪いものはない。
自分が死後、善い再生を得たいという自利心も決して悪いことではないが、自利心と(自利ベースの)利他心は、上記の「信愛(Love)→奉仕(Devotion)→放棄(Surrender)」という階梯を進む上で限界が生じてくるというお話でした。

禅師の言葉で印象に残ったのが、奉仕の心構えとして、
”not in my way, but in your own way”
(私の方法ではなく、あなたの方法で)という言葉でした。
また、「御心のままに」という言葉もありました。

私の体験として、年末から、仕事上で、仕事先の人とぶつかり、ストレスを感じていましたが、
先輩格の人に、相談したところ、「お客さんだから、素人だから」というようなことを言われ、たしかに、自分の考えたやり方や考え”in my own way”を相手にぶつけていたと反省しました。
なるべく相手の意向通りというスタンスにしましたら、精神的にも楽になったので、上記の言葉には腑に落ちる面がありました。

話を戻しますと、離見心とは、「オレが」「オレが」とか「私」「あなた」という境界線が消えた心とのことです。
上記のラーマクリシュナの言葉でいいますと、「<オレ>というものが消えた無私の心」なのかもしれません。
慈悲の行や、Ānāpāna Satiなどで、心が善なる心に満たされて、静寂になる。
そして、清らかな心に満たされ、まるでお釈迦さまと一体感を感じるような心―それが離見心とのお話でした。パーリ語で言えばNekkhammaに相当します。
そのような心で行えば、「信愛(Love)→奉仕(Devotion)→放棄(Surrender)」のプロセスをなんの限界もぶつかりもなく、進めていくことができるというお話でした。
そして、離見心という心の鍵となるのが、Saddhā(信)、Aspiration、
Samādhi(定)ということでした。
道元禅師にも、「学道はすべからく吾我をはなるべし」(『正法眼蔵随聞記』(ちくま学芸文庫)p.358)という言葉がありますが、この「我を離れる」というのは、
俗な話では、「我を捨てて仕事しろ」とか一般企業などでも聞く話です。
ブラック企業などでも聞く話です。
しかし、禅師のお話では、Saddhā(信)を置く対象、「御心のままに」という対象は、誰でも良いわけではなく、仏法僧などの善なる清らかな対象や、世俗であれば自分が学びたい上司などというお話でした。

離見心の鍵となるSaddhā(信)ですが、次回の原始仏教トークのテーマが、Saddhāだそうです。
上記のラーマクリシュナの本で、

「ハリ(ヴィシュヌ神の一名)や、ラーマ(ヴィシュヌ神の化身とみなされている古代の英雄。ラーマーヤナの主人公)の名を、一度でもとなえたら、たちまち体中の毛が逆立って涙がこぼれる」(p.73)

というSaddhāの描写がありましたが、
私も現在あまりSaddhāについてよくわかっていません。
理由として、私個人の問題以外に、
①戦後の唯物論的、無神論的教育
②新興宗教などによる「信仰」についての悪いイメージ
③分別説部の流れを組む論師による「Saddhāは、根拠のある条件付きのSaddhāである」という説(増支部カーラーマ経、スッタニパータの「信仰を捨てよ」、中部経典60無戯論経 ākāravatī saddhā根拠のある信 を根拠としてもの)
など、「Saddhāをわからせないように、Saddhāをわからせないように」という、Saddhāをわからせないような社会的な条件付けがあるように個人的には、思います。
そのため、ラーマクリシュナがおっしゃるような「たちまち体中の毛が逆立って涙がこぼれる」「体中が善なる清らかな心に浄化される」ようなSaddhāがピンとこない状況ですが、
ラーマクリシュナが「大実母カリー!」という圧倒的なSaddhā、神への愛が、あったのと同様に、ブッダと同時代に生きた弟子、尊者の方々も「お釈迦さま!」という圧倒的な清浄なるSaddhāがあったはずとは思っています。

今回の離見心の法話の理解を深め、
また、そういった不信、疑念に決着をつけるべく、
次回3月3日の原始仏教トーク第48回『Saddhā 仏教の信を科学する』を拝聴したいと思います。

(参学者)筆名:玄沙師備

1月28日日曜傳修会

気温、2度。凍てつくような寒さと曇った空。
前日、何故かなかなか寝付けなかった私は起床を少し遅くしたため,いつもの90分瞑想は途中からの参加。既に数名の参学者が瞑想されていました。

この寒さのせいか、隣家の屋根にはまだ先週降った雪が残っています。
アビダンマ講座が始まる頃にはいつも通り満席状態。参学者全員のアスピレーションが伝わってきます。

アビダンマは引き続き二十四縁起の中伝、Anantara-paccayoの三回目。前回同様、既に暗記し終わっている参学者がスラスラ唱える様を見て暗記が遅れている自分は少しずつでもいいからコツコツやらなければと、これは参学者たる者の義務であると改めて決意しました。

まとめのdiagramはここでしか学べない得がたきものです。一つ一つの項目は各stanzaに相応していて、⇛に込められた意味・内容の深さに感じ入りました。
まだvīthi の途中を学んでいる自分にとってはレベルが高く付いていけない事も多いですが少しずつ理解を深めていきたいです。

続いて休憩を挟み修行報告の時間。
中でも特にスポーツや食事、健康のについての法話が印象深かったです。
「No games, just sports」というフレーズを聞いて、自分が長年持病の治療と予防を兼ねてひたすら続けてきたジョギングや筋トレ、数年前から取り入れた体幹トレーニングなどは間違ってなかった、と安心しました。持病への対策が結果として仏教修行の準備になっていたのかな、と何だか救われた気持ちになりました。

食事については、修行するようになって酒、煙草を止めてからつい甘いものに手を伸ばしがちにがちになっていたので、対象が変わっただけでRasa-taṇhāはそのままだから気を付けないと、とコントロールの必要性を感じました。

最後に睡眠については、タイムリーというかここ数日、睡眠とAkusala(特にDosa)、睡眠と瞑想の関係について考えて、試していたところだったので、やはりもう少し増やして7時間、それも質の良い7時間の睡眠が理想かな、と思いました。

他にも1日1随念など貴重な法話を拝聴でき、またまた今回も得るもの多き1日となり明日からのエネルギーもしっかりチャージして帰途につきました。
ありがとうございました。

参学者N