7/15ウポサタ傳修会&リトリート

本日はウポサタ瞑想会に参加しました。

参学者TSさんが土からこだわり育てている蓮が見事に花を咲かせていました。本物を見るのは初めてでしたので感動いたしました。しかし夕方には散ってしまい、その命の短さに驚きました。新しい蕾をつけていますのでタイミングが合えば、きっと花をご覧になれるでしょう。

さて今回のアビダンマ講座は二十四縁起の相応縁及び非相応縁についての講義でした。前生縁及び後生縁に関連付けての解説で、改めて二十四縁起はそれぞれが独立したものでなく関連していることを思い知らされます。

続いてダンマに関する質疑応答がありました。
本日は主に誓願と善行為について話されました。
例として「教育の機会に恵まれなかった少女が次世では十分に教育を受けられる都会の女性に生まれたいという強い誓願を持って、限られた食物を比丘にお布施し続け、その結果願いが叶った話」があげられました。
我々は果たしてこの少女のように強い誓願を持っているのか?また自己放棄を伴うお布施やご奉仕のような善行為を、強い思いを持って継続しているのか?
禅師から問いかけられました。そして強い誓願と善行為を継続するためにパラミカードを活用して欲しいと強調されました。
私は今様々な作務をさせていただく機会に恵まれていますので、無駄にせず強い誓願を持って善なる思いで取り組んでいこうと思いました。

続いて翌日の月曜までリトリートに参加しました。暑いながら真剣に修行に取り組んでいる参学者の皆さんには大変刺激を受けました。瞑想の調子はあまりよくありませんでしたが、このような積み重ねが、いつか大いなる結果を生んでくれるのだろうと楽しみです。リトリートでは各自、個人インタビューを受けることができます。幾度か法話で触れられた内容であっても、その時のアドバイスとして再び語られると心に深く刺さるものがあります。まだ参加されたことない方も、是非お気軽に参加してください。お待ちしております。

参学者C

7/8傳修会&第52回原始仏教トーク「Jarā-時の流れを味方につける」

 

週半ば頃から降り続いた豪雨により、西日本の各県で多くの方々が被災されました。
犠牲となられた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、一刻も早い復旧・復興を心より祈念いたします。

 

 

 

 

 

 

さて、今日も蒸し暑い1日でしたが、原始仏教トークということもあり、中央区佃区民館には、沢山の参学者の方々がいらっしゃいました。

 

 

 

 

朝10時からの「修行者のためのアビダンマ講座」では、二十四縁起中伝の第34回、Maggapaccayo(道縁)の講義が行われました。

 

ここで説かれる「Magga(道)」とは、苦集滅道、すなわち四聖諦の「道諦(=八支聖道)」でいう「道」ではなく、また、道智/果智でいう「道」でもありません。
Maggapaccayo(道縁)のMagga(道)とは、具体的にはNāmarūpa-sota(名色の連続体)をSugati(善趣)に導いていく道、及びDuggati(四悪趣)に堕としめる道を指します。
私達をSugatiに導く八種のKusala Magga(善道)と、Duggatiに堕としめる四種のAkusala Magga(不善道)について、相応するMaggaṅga(道支)を中心に、禅師から詳細な解説がありました。

スタンザ自体は先週のJhānapaccayo(禅縁)と同じ構成で、とても短いのですが、その意味するところは実に深淵です。

毎回、開示されるダンマの深さに驚かされ、本当に貴重な勉強をさせていただいているのだなと実感しているところです。

 

午後からは原始仏教トークが行われました。
今月のテーマは、一切の現象に本源的に内在しており、決して逃れることのできない苦のひとつである「Jarā(老い)」についてです。
修行者は、「生」を現世の誕生から死までに区切って捉えるのではなく、輪廻転生を何度も繰り返しながら涅槃証悟に至る自らのCitta-sota(心の連続体)の大きな流れを見据えるような、大いなる視点(Grand View)を持つことによって、時の流れを味方につけ、最終的なゴールに必ず到達することができるという、希望にあふれる御法話でした。

大誓願を心に持ち続け、アスピレーションを燃やしながら、善行を淡々と行い続けていけば、あとはダンマがすべて面倒をみてくださる。
お釈迦様の本当のダンマを学び、修行させて頂いていることに、深い感謝と幸せを感じております。

 

傳修院

参学者 習志野市 H.Y

 

7/1ウポサタ傳修会

ウポサタ傅修会はここしばらく欠席が続いていたのですが、やっと仕事が落ち着き、久しぶりの参加です。一ヶ月ぶりなので、途中の道程も懐かしい位です。

本日は11時頃、自主瞑想から合流しました。久しぶりの道場も、懐かしいです。

12時から30分程の受戒とチャンティング。そして13時から「修行者のためのアビダンマ講義#231 パッターナ中伝33 #17 静慮(じょうりょ)縁」の開始。

内容に入る前に、恒例のスタンザ暗唱です。何人かの法友が指名され、完璧に唱えて行かれます。実は私も指名されましたが、ブランクが祟り、答えられませんでした。次回以降、雪辱を図ります。

 

静慮縁は、パーリではJhānapaccayo。当然、禅定に関係する縁起かと想像していたのですが、このJhānaの意味は通常とは異なり、二十四縁起など、一部のダンマでのみ使われる広義の意味合いであるとのことです。色禅、無色禅だけでなく、欲界の善心/不善心を含めて、心が所縁へ留まっている状態全般を指すものである、ということですが、ブログでの記述はこの辺りまでと致します。

 

その後、質疑応答の時間に。地方から先日のリトリートに参加された方の、遠隔地で修行する場合の修行報告や禅師との指導面でのやりとりの仕方に関する質問。そして、不浄観修行の概要と、その中での三十二身分随念の位置付けや随念の方法、等。「我々は、今この瞬間の状態が次の瞬間も継続するという、根拠のない確信を持ってしまっており、これがBhavataṅhāを生む」という禅師のコメントが、とてもダンマ的で印象深かったです。

しばらくの傅修会欠席の間、日々の修行メニューは一人で続けてはいたものの、心の状態は大分ダンマから離れていたことが、本日久しぶりに傅修院で時間を過ごす中で分かりました。週末などに定期的に傅修院に出向き、禅師のお顔を見てそのお話を聞き、また、法友達の顔を見て言葉を交わす、という行為が、ダンマ的要素を心に維持する・心をダンマ的にリセットする上で重要であることを、改めて認識しました。

参学者KT

6/24ウポサタ傳修会

本日のアビダンマ講義は二十四縁起のIndriyapaccayo(根縁)がテーマでした。スタンザ自体は今までと似ていますが、そもそもIndriyaとは何か、いかなるIndriyaがあるのか、根縁に関わる各Cittaに随起するCetasikaは何か等については、背景としてアビダンマの深い理解が必要であり、とても勉強になる一方、今回も「急いで過去のアビダンマ講義を聴かなければ」と切迫感が湧く内容でした。

その後の修行報告に基づく瞑想指導では、示唆に富むアドバイスをいただきました。

まず、禅師がブラジルで修行を行っていた頃、四念処の随観を1日15時間行い、3時間睡眠の眠気を払拭するためにCankamaを多用された話を伺いました(そのvīriyaに圧倒されました)。

正しく心を使えば、Cankamaでも座禅と同程度の専注が得られること、肉体が疲労しているとき、雑念が止まらないとき、隨念を中心に修行するときは、特にCankamaが適していること、毎朝、時間が取れない人も、座禅ではなく、朝起きてそのままCankamaをすることによって、10分程度の瞑想時間は容易にとれるであろうこと、ベッドからトイレまで、ゆっくり10分かけてCankamaをするのもよいなど、日々の修行にCankamaを取り入れる為の様々なアドバイスをしてくださいました。

次に、会社を早退して道場に来山して掃除をした後、瞑想したら、よい専注できたとの報告に対しては、①人助け、お布施、写経でも何でも構わないから、ダンマに心を向けさせる前行(payoga)のパターンを沢山引き出しに入れておくこと、②仕事にあっては、単に気づいている心の状態を保ち、過去の記憶に基づいた思考によっていかなる判断もしないこと、③自分を「外からの悪影響で潰されうる若木であって、柵が必要」と捉え、外部からのAkusalaの侵入に対しては「見ざる聞かざる言わざる」とadhiṭṭhānaしてパッと払いのけることが重要だとアドバイスされました。特に③を徹底的に実践すれば、家に帰ってきて瞑想を行うときに、心の状態はかなり良いはずと強調されました。

その他、食事と生活を変える上で参考になりうる医食同源の先生のご紹介、Cankama中に「気づきを失った」と気づいたときに何が起きているのかの解説(puñña、pāramīによってcaṅkamaを忘れた記憶が蘇り、Pakati-upanissayapaccayo、或いはĀrammaṇa-upanissayapaccayoによってjavanaでdhammacchandaが生起)、いわゆる西洋哲学の自由意志についての考察(蓄積されたkilesa、puñña、pāramī、過去の記憶、苦楽に基づく反応パターン、習慣、adhiṭṭhānaによるmanasikāraの舵取り等の影響を受けており、いわゆる完全な自由意志はない)がなされました。普段学んでいるdhammaをいかに当てはめていくか参考になりました。

 

参学者S

 

6/17ウポサタ傳修会

台風6号が遥か南の海上で温帯低気圧に変わり、かなり涼しめの梅雨の合間の曇天の朝、いつものように松戸の道場でウポーサタ傳修会が催されました。今軽く「いつものように」と書きましたが、この「いつものように」が滞りなく毎回開かれるのは、禅師をはじめ数多くの方々の、たゆまぬ努力と精進の賜物であることを、ついつい忘れがちになってしまいます。ここで改めて深く感謝いたします。禅師、多くの作務で道場を支えて下さっている皆さん、いつも本当にありがとうございます。

今回の「修行者のためのアビダンマ講座」はその229回目、テーマは二十四縁起のうちの一つ、Āhārapaccayo(食縁)です。
Āhāraは伝統的に「食」と訳されますが、正確にはRūpa(色)のĀhāraであるKabaḷīkāro(段食)と、ArūpaのĀhāraであるPhassa(触)、Viññāṇa(識)、Cetanā(思)の計四種があると解説がありました。

Āhāraとは、もちろん物質的な食べ物(=Kabaḷīkāro, 段食)も含まれますが、仏教ではさらに 、我々人間や諸々の衆生のNāmaとRūpaの連続体に栄養を与え続け、その存続を強固にサポートする要素のことであると定義され、それが四つあると説かれます。なるほど! このように自分がずっと長い間持ち続けていた、強固な物の見方が刷新される瞬間が、仏教を学ぶ上での醍醐味の一つなのかもしれません。

 

「人はパンのみにて生くるものに非ず」、人間には物質的な栄養だけでなく、「神の言葉」のような精神的な栄養がどうしても必要であると聖書には書かれています。
しかしここでのĀhāra(食)はそんな漠然としたものではなく、もっと厳密に、正確に、人間及びその他の衆生を瞬間瞬間、存続させ続けている要素を、Kabaḷīkāro(段食)、Phassa(触)、Viññāṇa(識)、Cetanā(思)の四つにまで、ぎりぎり絞り込んで示してくれています。さすが! と思いました。
それらによって「私たちは生かされている」わけですが、そこで「ありがとう!」とならないのが仏教。最終的に解脱を目指すわけですから、言い変えれば、これらの四つが「輪廻の輪を回転させている元凶」だと考えらているわけです。

いずれ私たちも、これら四つのĀhāraをparamatthaレベルで詳細に識別していくことになるとのことです。また、その段階に至るまでの間、この四食を繰り返し沈思黙考し、日々随念し続けていくことが肝要だというお話が、禅師からありました。

 

そういえば過去のアビダンマ講座において、既に何度かこのĀhāraについて詳しく解説があったことを思い出したので、自宅に戻って調べてみると、117回と178回がそれに当たることがわかりました。117回にはもう既にĀhārapaccayo(食縁)のstanzaとその日本語訳が出ていて(全く記憶に残っていませんでした。お恥ずかしい)、四つの食の詳しい解説がなされていますし、178回ではDīgha-NikāyaのSangīti-sutta(結集経)や、Saṃyutta-NikāyaのĀhāra-sutta(食経)において、お釈迦様がどのようにĀhāraを説かれているかが紹介されています。
Paṭṭhāna(二十四縁起)を勉強していると、必然的に過去の講義の復習が余儀なくされますね。こうやって少しづつ螺旋を描くように、徐々に理解が深まっていくのが仏教の勉強なのだと思います。これからも、落ちこぼれないように頑張っていきたいと思います。

後半は質疑応答のコーナーです。今回は『無礙解道論』の語句の解釈にまつわる二つの疑問について、禅師が答えられました。第一は南伝大蔵経で「普前」と訳されるparimukhaという言葉の真意について、第二は入出息において「長い息を吸いながら長い息を吸っていると知る」という表現は、本当はどう解釈すべきなのかということについてでした。
「個人的な意見ですが」と謙虚に前置きされて、禅師がご自身の解釈を披露してくれました。
ついさらっと聞き流してしまいますが、語られる一つ一つの言葉が、いったいどれだけの修行によって裏打ちされているものなのかは、今の私たちには知る由もありません。でも、いつか少しでもその高みに近づけたらと思います。
今週も充実した一日を過ごすことができました。どうもありがとうございました!
参学者 Q

6/10ウポサタ瞑想会

本日のアビダンマ講義はVipākapaccayo(異熟縁)がテーマでした。この縁起はKamma(業)については触れず、あくまでVipāka Citta(異熟心)と随起するCetasika(心所)間の関係にのみ言及されているため、非常に短いスタンザであることが印象的でした。
その分、場面ごとの異熟心・心所の数の検討に時間が割かれ、過去のアビダンマ講義を聴いていないと難しい内容でしたが、「急いで過去のアビダンマ講義を聴かなければ」と切迫感が湧きました。

修行報告に基づく瞑想指導では、①目標とする瞑想時間のセイフティネットは二重に設定すること。通常は一日あたりの瞑想時間を設定して修行していき、一週間の総瞑想時間を第一のセイフティネット、病気や出張など不測の事態の場合は、一ヶ月の総瞑想時間を第二のセイフティネットとして設定し、不足分はリトリートなどを利用して目標を達成するようにすること、②修行において必要なのはAspiration(菩提心)とAdhiṭṭhāna(誓願)であって、Akusala Vitakka(不善思考)は一切必要なく、排除すべきであること、③いつまでも禅師からダンマを説いてもらえると思ってはならない、これが最後と思ってSaṁvega(切迫感)をもって学ぶこと、④Ānāpānasatiの所縁はPhoṭṭhabbaの感覚であるから、それを念珠の中糸とすること。感受と認識のコツがつかめたら、それを修行日誌に記し、つまづく度に読み返すようにすること、⑤Ānāpānasati修行の最大の難関は、その禅相について諸説が入り乱れていること。今後の水曜瞑想会とリトリートにおける無礙解道の講義で、それを明確に解説していくので是非参加してほしい、と説かれました。

現在、よく知られている修行マニュアルとして小部経典のPaṭisambhidāmagga(無礙解道 B.C.3)、セイロン分別説部無畏山派の手によるVimuttimagga(解脱道論A.C.1)、セイロン分別説部大寺派の手によるVisuddhimagga(清浄道論 A.C.5)がありますが、解脱道論以降は、主たるSamatha瞑想法がĀnāpānasatiからKasiṇa瞑想に変わり、さらに清浄道論ではĀnāpānasatiの禅相について、無礙解道に開示されている原始仏教のそれとはまったく違う見解が示されるに至りました。


つまりĀnāpānasatiの禅相についての混乱は、清浄道論に端を発しているとのことです。昨日のリトリートの講義では、大本の文章である無礙解道の「鋸歯の喩え」と「満月の喩え」が配布されました。清浄道論において、そこからどのように誤解が発生したのか、今後の講義で明らかに示されていくとのことです。次の講義が待ち遠しいです。

参学者S

6/3ウポサタ傳修会&第51回原始仏教トーク「仏陀荘厳」

● 修行者のためのアビダンマ講座#227 二十四縁起中伝第29回

今回は中央区日本橋公会堂2Fで、アビダンマ講座、原始仏教トーク、ヴェーサーカ祭、Q&Aが開催されました。
傳修院で瞑想、法話、質疑を聞くと不思議と元気が出てくるので毎週がんばって出席しています。

最近段々楽しくなってきたアビダンマ講座は、先週までで二十四縁起の前半が終了し、いよいよ後半にはいりました。今日は13番目の縁起であるKammapaccayo(業縁)について学びました。

Kammmapaccayoには、いわゆるkammma(業) → vipāka(異熟)の縁起と、Cetanāの性質のひとつである「同時に生起するNāmarūpa(名色)をまとめ牽引する」縁起のふたつがあるとのお話でした。

二十四縁起の講義では、とにかく暗記することが求められています。
最初はなかなかスタンザが覚えられませんでしたが、コツをつかんでからは、どんどん暗記できるようになり、なかなか爽快です。以前に学んだアビダンマの内容もフル動員し、より深くダンマを学べている気がしています。

参学者 K

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● 原始仏教トーク 第51回「佛陀荘厳」

今月の原始仏教トークは、「仏陀荘厳」についてでした。

まず、お釈迦様のご入滅後、在家信者の方々が、礼拝の対象として、どのように自分の心の拠り所を作ってきたかという歴史についてお話がありました。
初期の頃は、仏舎利/ストゥーパ(仏塔)信仰、仏足信仰、菩提樹信仰など、「偉大なお釈迦様のお姿は直接描かない」様式での信仰・礼拝が一般的であったとのことで興味深かったです。

そのような中、ギリシアのアレクサンドロ三世王の東方への侵攻が始まると、ガンダーラ地方やマトゥラー地方を中心として彫刻文化が広まり、やがて仏像が広く製作されるようになって、ストゥーパ(仏塔)の代わりに、仏像を自宅にお祀りし礼拝するスタイルが、徐々に確立されていったとのことでした。

仏像を中心としたシュライン荘厳の習慣は、北インドから中国、チベット、そして日本へと伝わり、その過程において、厳格かつ、洗練された荘厳の様式が確立され、様式美が生み出されていったとのことでした。反面、南インド~セイロンには厳格な荘厳様式はあまり拡がらず、現代でも見られるような、よく言えば自由、批判的に言えば本尊軽視の風潮が生まれたのかもしれない、とのお話しでした。

そして、仏滅後2600年も経ってしまい、過去の様々な信仰の心の拠り所としての対象物が、形骸化してしまっている現在、我々は、どのようにお釈迦様への礼拝の想いを確立していけるのか?

ポイントは、以下の3点だったように感じました。

① ご本尊(=ブッダニミッタ)は、自分にとって「ただ一つのみ」にする。

② そのご本尊(=ブッダニミッタ)で、まず自分の心の内陣にシュラインを建立する。そして次に、その内的シュラインと相似になるような清浄な外的なシュラインを、自宅に建立する。

③ 日々、内的、外的の2つのシュラインにご供物を奉納し続け、洗練された荘厳方法で、浄化し続け、三宝との一体感を高め、自分のsaddhā、菩提心を最高度に高めていく。

①については、「ご本尊が定まっていない人は、saddhāも定まらない」という言葉が印象的でした。
確かに、せっかく自分の心に生まれた菩提心のパワーを分散させないためにも、「仏像なら何でも良い。荘厳様式も何でも良い。」という適当であいまいな態度は、戦略的ではないと感じました。

また、禅師が、ご本尊として、なぜ、このブッダニミッタをご選択されたのかという理由のお話がありました。

「無駄な装飾がなく、瞑想、随念が深まった時に心に現れるウッガハニミッタに極めて近いので、スムースに随念・瞑想に入ることができ、修行が進んでも、一生にわたり、さらに輪廻を越えて自分のニミッタとして確立できる」「仏像としては最も古いガンダーラ様式で作られた仏頭である」「禅師の経験上、これ以上、瞑想、随念に適したニミッタはない」「禅師を含め、過去世においてお釈迦さまと直接会った経験のある比丘達は異口同音に、このブッダニミッタのお顔は、実際のお釈迦様の醸し出す雰囲気に極めて近い、という印象を持っている」ことなどがあり、自らの全てを放棄して、仏法僧へ礼拝する為のシンボル、サイン、トリガーとして、非常に有用なものであるとご説明がありました。

②については、まず、自分の心の内陣にて、「アーナンダ長老が、毎日、お釈迦様、お釈迦様のダンマ、そして修行完成された先達の方々へ感じていた三宝への熱い想い」を想像し、「お釈迦様と24時間常に一緒に生活し、修行する気持ち」をブッダニミッタによって確立し、内的シュラインを建立する重要性が説かれていたように思います。
内的シュラインが存在した上で、はじめて、その熱い想いを的確に反映した外的シュラインが建立できるのだと思います。

③については、心の内的シュラインのご本尊へのご供物は、日々の自分の修行から生まれる五根であり、それらをご奉納し続けて行くとのことでした。
また、その心の内的シュラインの清浄性と呼応するような形で、外的な自宅のシュラインも如法に、そして、洗練された方法によってご供物によるご奉納を継続し、その具体的かつ実現可能な手法として、「打敷(うちしき)」「五具足(ごぐそく)」「三具足(みつぐそく)」などの荘厳方法を教えていただきました。

外的なシュラインを清浄に保つ最低限のこととして、毎日、シュラインの前で、「三礼拝」「三帰依」「五戒」「仏随念」「法随念」「僧随念」を、心を込めてお唱えすることが伝えられました。

また、傳修院として、「ご本尊(=ブッダニミッタ)」「 打敷 」については、参学者に、禅師のご祈願の後に、如法なシュラインを自宅で建立できるように、ご提供いただける予定との嬉しいお知らせもありました。

今回の原始仏教トークは、一点の迷いも無い、仏法僧の三宝への絶対的な帰依の気持ちを、「ご本尊(=ブッダニミッタ)」「内的シュライン」「外的シュライン」の3つのリンケージを通して、どのように自分の心に日々強固に確立し、saddhāや菩提心を最高度に高めていけるのかについての具体的な方法についてのご説明であったと思います。

いつも禅師に教えていただいていることですが、熱いsaddhāや菩提心がなければ、いくら難しいアビダンマを勉強しても、アナパナ瞑想を実践しても、修行は一歩も進まない。

自分にとっては、その教えを再確認できたご法話でした。

● ヴェーサカ祭法要

その後、「ヴェーサカ祭」が開催されました。

禅師によってヴェーサカ祭開催の法要がなされた後、参加者一同によって、仏随念が唱え続けられる中、一人一人、お釈迦様への感謝の想いを胸に、ご奉納していきました。

全員のご奉納が終わるまで、かなり長い時間になりましたが、その間、仏随念を唱え続けるというのは、他のすべてを忘れて、仏随念だけに没頭できる時間であり、とても厳粛なものでした。

● Q&A

この日、最後のパートはQAのセッションでした。

「腰痛への対処法」「どこまでがKammaによるvipākaといえるのか?」「自分に直接関係ない他人のkamma-vipākaに関して何か意見しても良いのか?」「お寺のご本尊の前で、自分の内なるブッダニミッタを礼拝するのは問題にならないのか?(お寺のご本尊が気分を損ねるなど)」「自分の思考で心をコントロールできるのか?」などに対してのご回答がありました。

自分にとっては、最後の質問に対するご回答が興味深かったです。

心路過程に表出する表面的な3つのmanasikāraの他に、心の深い部分(āsava、puñña、pāramīなど)にもmanasikāraが存在し、それらが心の舵取りをしているので、manasikāraをコントロールしない限り、心はコントロールできない。
それらが二十四縁起では、ārammaṇādhipati-paccayo, ārammaṇūpanissaya-paccayo, pakatūpanissaya-paccayo などと呼ばれているもので、無始無終の心の連続体の傾向性を決定付けている。

では、自分のmanasikāraをコントロールできるものは何なのか?
それは、思考ではなく、adhiṭṭhānaの力であり、強固なmanasikāraの心の傾向性の舵取りをコントロールするには、āsevana-paccayoの力を利用した力強いadhiṭṭhānaを長期に渡り続けるという地道な誓願力に頼るしかない。
そのadhiṭṭhānaはāsavaよりも深く浸透し、積み重ねが強固な基盤を確立し、やがて、manasikāraをコントロールし、āsavaを根絶することが出来る。
pāramī カードは、地道で力強いadhiṭṭhānaを長期に続ける強力なツールなので、有効活用して欲しいとのお話でした。

今回の原始仏教トークの「仏陀荘厳」にも、まだまだ自分のsaddhāや菩提心を育てる大きな可能性があったように、adhiṭṭhānaや誓願力もまだ全然有効活用出来ておらず、何か自分の仏道修行を一歩前に進める大きな鍵が隠されている気がしたので、自分なりにもう一度、現状を再検討してみたいと思いました。

参学者L

5/27ウポサタ傳修会&週末リトリート

前日の托鉢会、リトリートから参加しました。

日曜日、午前3時半起床、そして、午前4時からチャンティングと瞑想で一日が始まります。道場にいると、なぜか、早い起床時間でも気にならないのが、不思議です。

 

その後、朝食、作務、瞑想二坐の後、日曜日の傳修会が始まりました。

今週の修行者のためのアビダンマ講義は、二十四縁起の前半まとめの最終回で、10~12番目の縁起の Purejātapaccayo, Pacchājātapaccayo, āsevanaaccayoを復習しました。

個人的には、Ārammaṇa、Sahajāta、Aññamañña、Nissaya、Purejātaは、複数の縁起が同時に成り立つケースが多々あるので、しっかり随念していきたいと思いました。

少しずつですが、Paramatta dhammaを二十四縁起で考察していく視点が構築されている気がするので、大変嬉しくなります。

QAのセッションでは、「八正道の正精進は、なぜ増上戒学ではなく、増上心学に含まれているのか?」「修行者はアナパナを業処としているのに、アナパナサティスッタ自体の解説があまりなされないのはなぜか?」「評論家の仏教に対する考察について」などの質問に回答がなされました。

個人的には、禅師のおっしゃるとおり、お釈迦様のdhammaは、修行者にとっては、「修行して涅槃に至るための修行法の開示」であり、哲学として仏教を議論しても修行者の自分には意味が無いし、もし、dhammaの解説であるならば、実際の修行法に落とし込めていない表面的な解説では、これも修行者の自分には意味をなさない、と思いました。

二十四縁起中伝にしても、前日の無碍解道の講義にしても、パーリ経典、日本語訳、英訳を見比べても、自分の能力ではきっと一生かかっても到達することができないような、深遠な修行法としてのdhamma解説が、禅師によってなされており、自分の仏道修行にとって、ものすごい近道をさせてもらっているな、と日々感謝の想いが尽きません。

傳修会の後は、1Fの休憩スペースでコーヒーを飲んでリフレッシュした後、午後4時より、リトリートが再開されました。

この日は、禅師に個人インタビューをしていただける日でもあったので、前回のインタビューからの個人的な Aha!のポイントをご報告し、また、それについて、いろいろと具体的なアドバイスをいただくことができました。

週末の2日間、3日間のリトリートは、宿泊の準備もほとんど必要ない、とても気軽に参加できるものだと思いますが、短期集中で瞑想して、その上、禅師とのインタビューで個人的な修行アドバイスもいただけるという大変濃密で貴重な時間だと思います。

その後、禅師からいただいたアドバイスを胸に秘めながら、午後9時まで瞑想して、今回のリトリートが終了しました。

上にも書きましたが、今回のリトリートも、私にとって、大変濃密で貴重な時間でした。

他の参学者の皆様も、ぜひ短期リトリートへの参加をご検討ください。

参学者L