2018/10/14 ウポーサタ傳修会

先月から気分転換も兼ねて傳修院に行くのに最寄り駅でなく、少し遠い乗り換え駅まで自転車で行って、そこから電車に乗って道場に通っています。今日は朝から雨模様で、降ったりやんだりの天気だったので、自転車では無理かなと思ったのですが、出かけるころには空が明るくなってきて大丈夫でした。

午前中の瞑想から参加しました。最近短い時間で区切りながら、瞑想するようにしているので、長い一座は久しぶりでした。

アビダンマ講座はSahajātapaccayoのMajjhima-Sahajāta Paccayoグループの解説でした。今日の講義でSahajātaとAññmaññaとSampayuttaの微妙な定義の違いや、どういったニュアンスで分類しているのか等、わかりやすくなったと思います。講義の内容自体にはついていけるのですが、大分前に学んだCetasikaの詳細がだんだん怪しくなってきたので復習の必要を感じました。

質疑応答では、仏随念の時の心の使い方についてお答えがありました。
NimittaをトリガーとしてSaddhāが出てくるように、お釈迦様のNimittaを自分の心の中で育て上げていかなければならない、というお話でした。
Nimitta自体が本物のブッダかどうかはポイントではなく、それがSaddhāのトリガーとして機能するかどうかが重要ということでした。
個人的にとても参考になるお話でした。

また、自分の目指す修行者モデル、という質問について、仏教徒なら慈経にあるような修行者を目指すべし、というお話がありました。
私個人の人間関係を想い起こせば、それは困難なことのように思えましたが、お経の中でも最も古層に属するスッタニパータの中に編纂されている、おそらくお釈迦様の本当のお言葉だったろうと思われる慈経ということもあり、やはり忘れずに心にとめておこうと思いました。

参学者Y

2018/10/07 ウポーサタ傳修会

昨日に続き、季節は外れの夏のような陽気となりました。
本日のウポーサタ傳修会は「修行者のためのアビダンマ講座」伝法五周年記念日にあたり、沢山の参学者の方が来山されました。

今日の法話は伝法五周年記念講義として、「修行者にとってのアビダンマ」についてのお話でした。

禅師が2013年に帰国されてから始められたアビダンマ講座も、今月で丸五年となり、その回数も244回に至りました。
解脱に至る修行に必要な深淵なダンマや瞑想法の伝法をする際に、どうしても必要となる仏教の知識ベースを修行者の方々に身につけてもらいたい、その為には先ずアビダンマの伝法からはじめるべきである、とのお考えから「修行者のためのアビダンマ講座」が開講されました。
禅師がこの5年間のアビダンマの伝法で感じている事の一つとして、「アビダンマの勉強を言われたとおりしっかりと学び継続している修行者は、アスピレーションが守られていて、道を踏み外すことがない」というお話がありました。「これについてはいくつもの実証があります。大切に心に留めておいて下さい」との御教示的なお話を頂きました。

御法話の中で禅師は、御自身の過去世からの修行体験、アビダンマとの出会い、修行者にとってアビダンマは如何なる役割を果たすか、などについて詳しく講話して下さいました。

アビダンマの歴史を考察すると、お釈迦様の入滅100年以降、次第に多くの部派が形成され、各部派が独自のアビダンマを持っていたということ(その殆どが消失し現存しているものは少ないが、優れているものも多くある)、
また、
大寺派のアビダンマ・ピタカ(論蔵)には七つの論が収められているが、アビダンマはこの七論に限るものではなく、上座部系各部派の論蔵もまた学ばれるべきこと、
それにも関わらず現代では、お釈迦様が入滅して1500年の後にセイロン仏教大寺派のアヌルッダ長老によって在家や沙弥の為に書かれた短い入門書であるアビダンマッタサンガハのみが、アビダンマとして学ばれていることなど、いくつかの問題点を指摘されました。

また禅師は、スッタとアビダンマは分けて理解するものではなく、スッタを深く正確に理解するためにこそアビダンマが使われるべきであり、また、アビダンマの理論的源泉はスッタにこそ求められるべきである、とお話しなられました。どちらもブッダ・ダンマであり、禅師にとってアビダンマとは、Higher Dhammaに他ならない、とのことでした。

最後に禅師から、アビダンマを深く学んでいく際に、どうしても忘れてはならないことについて重要な指摘がありました。
アビダンマを深く学べば学ぶほど、修行者は瞑想修行や徳行の実践(思考を止める、善行をする、身施、財施、法施などの布施行、信を深める、慈しみの心を育て、人に優しくするなど)をしっかりと修行するように、との御教示を頂きました。
すなわち「ダンマの学び」と「ダンマの実践」はクルマの両輪のようにバランスよく修習していかなければならない、 ということです。

私達仏教修行者には ①今生での世俗的な成功 ②天界への転生 ③涅槃証悟 という三種類の目標設定があり、そのどれを目指しても構いません。
お釈迦様がこの世で法を開示されていた当時のように、各修行者がそれぞれ、この3つの目標のうち自分にあったものを選んで、各々が修行に励んでいく世の中になれば素晴らしい、と思います。
私もまた、アスピレーションを絶やさずに燃え上がらせて、禅師の御指導を頂きながら努力精進し、自己完成を目指していきたいと思います。

参学者Y

9/30ウポサタ傳修会

台風24号が近づく中、帰り道に暴風雨に巻き込まれないか若干の心配を抱えながら、道場に向かいました。
今週のアビダンマ講座は、倶生縁のさらに詳細な分類法であるMahā-Sahajāta-paccayoグループの勉強をしました。


Sahajāta-paccayo、Nissaya-paccayo、Atthi-paccayo、Avigata-paccayoの四つの24縁起は、五つの同じスタンザから始まりますが、それぞれのスタンザについて、四つの縁起の観点から、全てのケースにおいて微妙なニュアンスの違いを見ていく、というものでした。
ヴィパッサナー瞑想は、煩悩を根絶やしにするための「もぐらたたき」のようだと言われますが、例えるならば、煩悩の根を根絶させるために、「四つの微妙な縁起の観点」×「全てのケース」において、数限りない様々な方向からたたき続け、メッタ斬りにするイメージなのかなと思いました。

 

煩悩を根絶やしにする方法として、深遠な縁起についてあまり理解せず、単純に一方向から踏みつけるだけでも、なんとかなるのかもしれませんが、そのたたき方しか知らなければ、非常に長い時間がかかると思われます。 お釈迦様のサーサナが終わってしまい、この期間においてはゲームオーバーとなってしまう可能性も高いのかもしれません。

もし、煩悩を根絶やしにするもぐらたたきの方法を、いくつも知っているのならば、煩悩の根は、様々の方向から、鋭いVipassanā paññāによってメッタ斬りにされ、格段に早く根絶やしにすることが可能なのだと思われます。

禅師の「アビダンマッタサンガハレベルのCitta、Cetasika、Rūpa、Vīthiなどの知識はただの部品であり、お釈迦様は深遠な「縁起」を所縁としたVipassanā瞑想で成道されたことを忘れてはならない。」 というお言葉が印象的でした。

CI(瞑想指導)のコーナーでは、 「ラーマクリシュナのSaddhāについて」「加持開眼の意味について」 「修行日誌について」 「SotāpannaやSakadāgāmīの煩悩について」 などのお話がありました。

最近の伝法講義では、 Saddhāについては「観行の重要性」、Paññāについては、本日の講義のような「Paramattadhammaを、より詳細で深遠なアビダンマの理解によって、メッタ斬りにする為の随観の具体的方法」など、過去5年間の講義ではあまり開示されてこなかった、さらに一段ステップアップした、本格的な修行者に向けてのダンマが開示されているように感じます。

現在の私には、どれをひとつとってもまともにできるものはなく、また全て非常に時間の掛かる修行であり、これから先の長い道のりに途方に暮れてしまう部分もありますが、気負うことなく楽しみながら修行を続けていきたいなと思いました。

参学者L

9/23ウポサタ傳修会

今年は猛烈な暑さが続きましたがさすがにお彼岸ともなるとだいぶしのぎやすくなりました。
今日は午前の瞑想に途中から参加して、午後のアビダンマ講義と質疑応答まで受講しました。

アビダンマ講座は、二十四縁起の倶生縁の縁法と縁所生法の詳細な解説がありました。また次回以降に開示される予定の倶生縁のサブグループについても少し言及がありました。

Q&Aで印象に残ったのはSaddhāについてのお答えでした。
Saddhāという心所は対象を選ばない、対象がたとえイワシの頭であったとしても、本人の純粋な心からでたものであれば、燃え上がるようなShddhaが生じ得る、すべては修行者に生ずる燃え上がるような思い次第である、というお話でした。

もう一つ面白かったのが、一般の宗教は家のようなものであり、お釈迦様のダンマは道である、という譬えでした。
「普通の宗教は家」とは、家にはその価値体系、思想的体系があり、それを受け入れるなら誰でも家の中に入ることができる、家の中ではみんなといっしょに守られるし、それなり恩恵も受けられるだろう、ゴールまで達する必要もないし、人生のセコムみたいなもので、リスクを回避しながら安心して世間で生きていくことが目的だということです。

一方仏教は柔道や茶道のような道(どう)であり、「究めるべきもの」というのが前提にあるとのことでした。
家のように中で安心して落ち着いていればよい、という訳ではなく、常に前進すること、進歩することが期待されており、
師匠が手を引いてくれないととても進めない茨の道なので、2,3年で飽きてしまう人も多い、とお話しになりました。
そして、この道を進む根源的駆動力はSaddhaであるとのことでした。
この「2,3年で飽きる」というのと「Saddhaが駆動力」というのがポイントだと思いました。

たとえば稽古事やっていると誰でも2,3年経つと外面的な型は何となく覚えて、それっぽく見えるようになります。その時点で「こんなもんだ」と思って稽古そのものを辞めてしまったり、続けたとしても進歩が止まってしまう、そんなことが起こるのをよく目にします。やはりこれも駆動力であるSaddhaの枯渇に原因があるのだな、と思いました。

どんなことでも、自分が長年情熱を注いでやっている場合、情熱を燃やし続けるエネルギーと、仏教修行におけるSaddhaの関連性についてよく考えてみたい、と思いました。

参学者 KT

2018/09/16 ウポサタ傳修会


本日は二十四縁起の第4番目、無間縁と等無間縁の縁法と縁所生法の講義でした。

講義に先立ち、詳説のスタンザの暗唱を禅師と参学者の皆様と共にお唱えすることから始まりました。

全員でスタンザを暗唱したのですが、
これは、自分自身に程よい緊張感を与えてくれ、
また、これから始まる講義に対する心構えが出来、
懐かしい学生時代の緊張感のある授業を思い出したりして、
とても新鮮な気持ちになり、いいことだなあ、と感じ入りました。

さて講義は先ず、無間縁と等無間縁の縁法、縁所生法、障礙法の説明があり、これを踏まえて詳しい解説に入っていきました。

無間とは間に何も無い、前の現象が消滅後、間髪入れずに次の現象が生起する。という意味ですが、
大切な事は、無間縁と等無間縁は全てのNāma Dhamma(名法)における縁起であって、Rūpa Dhamma(色法)は一切含まないとの解説を頂きました。

この解説から、幾つかの大切な事も列挙して御説明頂きました。

無間縁/等無間縁は、無始から今までのCitta-sota(Cittaの連続体)を作っている根本的縁起である、ということ、
無間縁/等無間縁の流れは誰にも止めることが出来ない故に、Anatta(無我)の体現とも観れること、
唯一の例外は阿羅漢に生起するCuti-citta(死亡心)であること、
しかし有情においては、ひとつの生存の最後のCuti-Cittaと次生のPaṭisandhādi Citta(結生心)は、境界は変わっても無間縁/等無間縁の関係に他ならないこと、
この縁起の特例として、滅尽定の入出時のVīthi(心路過程)の説明と、Asaññāsatta(無想天)を挟んだ輪廻転生時の説明がありました。
また、Nāma-sota(名の連続体)とRūpa-sota(色の連続体)を比較し、これらがまったく違う性質を持つことを、明確に解説されました。

日を追うごとに内容が詳細となり、また更に深まってゆかれるので、一つ一つを整理して、計画的な予習と復習が必要であると認識した次第です。

次に休憩を挟んでの瞑想指導がありました。
普段の生活の中で真摯に御修行をされている様子が、参学者の皆さんの質問から伺われ、また禅師の数々の質問に対するお答えが、質問者一人一人の現実に則した適切なお答えで、我が身に振り向けても大変為になるお話をお聴きすることができました。

習志野市 H.Y

9/8ウポサタ傳修会、第54回原始仏教トーク「ダンマが衰退する!」

本日は原始仏教トーク+ウポーサタ傳修会でした。
私は月に一度の原始仏教トークを聞くと、とても元気になるので毎回楽しみにしていますが今回の「ダンマの衰退」についてのお話は特別で、とてもショッキングなものでした。

お釈迦さまのお説きになる正しい三宝(仏、法、僧)が衰退しており
解脱に到るお釈迦様の教えと実践が失われかけている・・・

お釈迦様への信仰心が形骸化し、
禅定を軽視した小手先の瞑想技術ばかりが持てはやされ、意味を理解せずに些細な戒律ばかりを重視する風潮によって、現代の仏教は壊れかけている・・・

これも諸行無常のゆえか、と思いきや、よくよく考えてみれば、それはつまり私達仏教徒1人1人の心の中で、仏教が衰退しているということなんだ、と分かりました。

私達自身の持つお釈迦様への信が弱まり私達自身が、法を学んでそれを実践し実証していく、という努力を怠り苦を滅して幸せに到る道であるはずの仏教が目的を失ってしまっている。。

このような衰退が私の中でもまさに起こっている事に気づかされ、
慚愧の心がわきあがってきました。

幸いな事に傳修院では、お釈迦様が当時人々に教えていたであろう瑞々しい教えが今も説かれておりまたお手本になる真摯な修行者の方々も大勢います。

お釈迦様は般涅槃の直前、弟子達に対して、真摯に修行して幸せを得るよう、遺言されましたし、真摯に努力する修行者の意思と行いは、どんな高価な財宝よりも素晴らしい如来への供養であると、仰られております。

私達にそう言ってくださったお釈迦様、そしてダンマを伝えてくださった多くの偉大な仏弟子の方々のご恩に報いるためにも、貴重なこの機会を無駄にせず、もっと真面目に努力しなければならないと強く思った次第です。

法話の最後には、「このような状況だからこそ、私達はお釈迦様の教えである原始仏教を再興していきましょう!」という力強いお言葉が禅師から説かれ、私はいつも通り元気になりました。

私達1人1人が正しい道を歩き努力し続ければ原始仏教の再興という大きな目標も自ずと達成できると思います。

修行や作務をする上で得手不得手もあるでしょうし、様々な事情で中々時間が取れないこともありますが、
傳修院のメダカのお世話や禅師のTwitterを応援する事等できる事からコツコツと始めていきたいと思います。

今後私はどんな小さな作務や善行をする際にも、「原始仏教再興の一助となりますように!」という思いでさせて頂きますので、ブログをご覧の皆様も、お釈迦様の教えという希望を再興し!
さらに未だ来たらぬ友や、後世の友にダンマを残す!!為に、一緒に頑張って頂ければ嬉しく思います!!!

参学者PB

9/1ウポサタ傳修会-大悲禅師伝法伍周年-

 

2013年9月1日は、禅師が帰国されて第一回の瞑想会がスタートした日だそうです。本日(2018年9月2日)はその日から数えて5周年にあたります。今日、この会に参加されている方の中にも第一回目の瞑想会から、また2013年の当初から参加されている方が何人もいらっしゃるのを知り、その精進を継続する尊さと信の強固さに感銘を受けました。また、難解なアビダンマをはじめ貴重なダンマをできるだけ分かりやすく伝えようと常に心を砕いて伝法してくださる禅師への感謝の念も絶えません。

このような記念すべき日の朝、傳修院に着くとすでに参学者の方が持ち寄ったお菓子などが仏前にお供えされています。一坐の瞑想、昼食、授戒、チャンティングと進み、本日のアビダンマ講座では、Ārammaṇapaccayoの縁法(Paccaya Dhamma)と縁所生法(Paccay’uppanna Dhamma)とについての解説がありました。

具体的には、Ārammaṇapaccayoは11のサブグループに分けることができること、そしてその縁法と縁所生法は具体的にどのようなものか、いつものように禅師から詳細で明解な説明がありました。が、しかしすべてを説明していただけたわけではありません。肝心な部分については自分で考えるようにとのことでした。これまで、アビダンマについてその様々な分野の説明を聴き、内容を理解し、必要な部分は暗記する等の段階を経て、今度はそれらを土台として考察する段階に入ったようです。

思い出しますと、アビダンマを勉強し始めた当初の半年間ほど、アビダンマを学べば学ぶほど世界の成り立ちの秘密を目の当たりにするような知的興奮を感じながら勉強したことを覚えています。その時、「なぜこのように考えるのか」「この分類はどのような考え方から出てくるのか」等、ワクワクしながら学び、意味や内容を考え、理解しようとしていました。それはまったくの初学者レベルではありますが「あー、なるほどー」と少しずつですが理解できるたびに、一種の面白さを感じていたことを思い出します。これからのアビダンマ講座で禅師から出される宿題に正しい答えを導き出せるという自信は正直なところまったくありませんが、アビダンマの内容について考えることそれ自体は、とても楽しそうです。

 

アビダンマ講座の後は、禅師が日本で伝法を開始して5周年、その記念のお話と禅師より参学者にプラサードが手渡されました。続いて参学者の皆さんが持ち寄ったお供えのお菓子などを、一人ひとりが手に持ったビニール袋に入れていきました。大きなビニール袋がお菓子でいっぱいになります。幼稚園児なら狂喜する状況ですが、そろそろ幼稚園児の孫がいてもおかしくない年齢の私でも非常に楽しいです! このような機会はまさしく神様からの贈り物(プラサード)ですね! まあ、家に持って帰ると妻と大学生の息子の二人にすぐに食べられてしまうわけですが…

 

その後のダンマに関するQ&Aでは、「親の介護時に生起する感情(主にdosa)への対処について」「仏教で許容される欲の範囲とは」「自分の内なる導き手としてのブッダについて」などの質問に対して、禅師より丁寧な回答がありました。親の介護については自分自身も遠い郷里(青森)に高齢の母がおり、苦慮するところですので身につまされました。また、内なるお釈迦様と自我との関係のお話は実に深遠であり、考えさせられる内容です。

個人的な感想を許していただければ、私は新参者ですので、この5年間の会のエピソードや思い出話などを禅師やベテランの参学者の方から伺えたら大変嬉しいと思いました。

参学者SA

8/26ウポサタ傳修会

本日はウポーサタ傳修会でした。晴れの日が続いており、道場の庭の草木に散水しても直ちに乾いてしまいます。帰り際にもう一度散水しましたが、気になります。

アビダンマの講義では、禅師に指名された六人の参学者が前に立ち、二十四縁起詳説の最初から最後までを暗誦読誦しました。


二十四縁起詳説は、現象と現象の縁が解けたら消滅する(無常である)ことを示す重要なダンマであり、毎日随念を行えば「天界に再生して仏教修行を加速させる」ほどの波羅蜜が積める福田であるが故に、暗誦した二十四縁起のスタンザを、意味をかみしめながら、怠ることなく、日々読誦・随念することを、臨終の日まで続けるよう指導がありました。

修行報告に基づく瞑想指導では、一座ごとに瞑想のレビューを行い、一日の終わりには必ず修行日誌をつけるよう指導されました。忙しい社会人には無駄にできる時間はないのだから、効率的に修行を進めるためにも必ず実践するべきであるとのことでした。

また一度瞑想がうまくいった後、同じレベルの瞑想が再現できないとの報告に対しては、「深い専注を再び得よう」という思いには必ず「私」が内在しており、その時の心はDiṭṭhigata-sampayuttam lobha-mula cittaであって、SatiもPaññāも生起しないため、正念正知や五根は得られず、よい専注が得られないのは当然であると、指摘されました。

無礙解道論の十八随煩悩の解説にもあったとおり、過去や未来に一瞬でも心が向けば、その瞬間に専注の対象から心が離れてしまう事実を忘れてはならないとのことでした。

さらに参学者の方々に次のように問いかけられました。
「みなさんはお釈迦様を自らの内なる導き手として受け入れているでしょうか?」
「サーリプッタ長老やアーナンダ長老は、お釈迦様と離れて遊行しているときも、内なる導き手であるお釈迦様を心に観想し、自分とお釈迦さまとひとつである、という甘美な思いで心が満たされていました。みなさんにも同じような経験がありますか?」と。

お釈迦様への思いと正思惟こそが、幸せ・成長・涅槃への道であって、アビダンマの知識や瞑想の技術は、彼岸に渡るためのイカダに過ぎない、修行が進めば進むほど、この基本をしっかりと心に根付かせる必要があると強調されました。

参学者 S