7/8傳修会&第52回原始仏教トーク「Jarā-時の流れを味方につける」

 

週半ば頃から降り続いた豪雨により、西日本の各県で多くの方々が被災されました。
犠牲となられた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、一刻も早い復旧・復興を心より祈念いたします。

 

 

 

 

 

 

さて、今日も蒸し暑い1日でしたが、原始仏教トークということもあり、中央区佃区民館には、沢山の参学者の方々がいらっしゃいました。

 

 

 

 

朝10時からの「修行者のためのアビダンマ講座」では、二十四縁起中伝の第34回、Maggapaccayo(道縁)の講義が行われました。

 

ここで説かれる「Magga(道)」とは、苦集滅道、すなわち四聖諦の「道諦(=八支聖道)」でいう「道」ではなく、また、道智/果智でいう「道」でもありません。
Maggapaccayo(道縁)のMagga(道)とは、具体的にはNāmarūpa-sota(名色の連続体)をSugati(善趣)に導いていく道、及びDuggati(四悪趣)に堕としめる道を指します。
私達をSugatiに導く八種のKusala Magga(善道)と、Duggatiに堕としめる四種のAkusala Magga(不善道)について、相応するMaggaṅga(道支)を中心に、禅師から詳細な解説がありました。

スタンザ自体は先週のJhānapaccayo(禅縁)と同じ構成で、とても短いのですが、その意味するところは実に深淵です。

毎回、開示されるダンマの深さに驚かされ、本当に貴重な勉強をさせていただいているのだなと実感しているところです。

 

午後からは原始仏教トークが行われました。
今月のテーマは、一切の現象に本源的に内在しており、決して逃れることのできない苦のひとつである「Jarā(老い)」についてです。
修行者は、「生」を現世の誕生から死までに区切って捉えるのではなく、輪廻転生を何度も繰り返しながら涅槃証悟に至る自らのCitta-sota(心の連続体)の大きな流れを見据えるような、大いなる視点(Grand View)を持つことによって、時の流れを味方につけ、最終的なゴールに必ず到達することができるという、希望にあふれる御法話でした。

大誓願を心に持ち続け、アスピレーションを燃やしながら、善行を淡々と行い続けていけば、あとはダンマがすべて面倒をみてくださる。
お釈迦様の本当のダンマを学び、修行させて頂いていることに、深い感謝と幸せを感じております。

 

傳修院

参学者 習志野市 H.Y

 

6/3ウポサタ傳修会&第51回原始仏教トーク「仏陀荘厳」

● 修行者のためのアビダンマ講座#227 二十四縁起中伝第29回

今回は中央区日本橋公会堂2Fで、アビダンマ講座、原始仏教トーク、ヴェーサーカ祭、Q&Aが開催されました。
傳修院で瞑想、法話、質疑を聞くと不思議と元気が出てくるので毎週がんばって出席しています。

最近段々楽しくなってきたアビダンマ講座は、先週までで二十四縁起の前半が終了し、いよいよ後半にはいりました。今日は13番目の縁起であるKammapaccayo(業縁)について学びました。

Kammmapaccayoには、いわゆるkammma(業) → vipāka(異熟)の縁起と、Cetanāの性質のひとつである「同時に生起するNāmarūpa(名色)をまとめ牽引する」縁起のふたつがあるとのお話でした。

二十四縁起の講義では、とにかく暗記することが求められています。
最初はなかなかスタンザが覚えられませんでしたが、コツをつかんでからは、どんどん暗記できるようになり、なかなか爽快です。以前に学んだアビダンマの内容もフル動員し、より深くダンマを学べている気がしています。

参学者 K

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● 原始仏教トーク 第51回「佛陀荘厳」

今月の原始仏教トークは、「仏陀荘厳」についてでした。

まず、お釈迦様のご入滅後、在家信者の方々が、礼拝の対象として、どのように自分の心の拠り所を作ってきたかという歴史についてお話がありました。
初期の頃は、仏舎利/ストゥーパ(仏塔)信仰、仏足信仰、菩提樹信仰など、「偉大なお釈迦様のお姿は直接描かない」様式での信仰・礼拝が一般的であったとのことで興味深かったです。

そのような中、ギリシアのアレクサンドロ三世王の東方への侵攻が始まると、ガンダーラ地方やマトゥラー地方を中心として彫刻文化が広まり、やがて仏像が広く製作されるようになって、ストゥーパ(仏塔)の代わりに、仏像を自宅にお祀りし礼拝するスタイルが、徐々に確立されていったとのことでした。

仏像を中心としたシュライン荘厳の習慣は、北インドから中国、チベット、そして日本へと伝わり、その過程において、厳格かつ、洗練された荘厳の様式が確立され、様式美が生み出されていったとのことでした。反面、南インド~セイロンには厳格な荘厳様式はあまり拡がらず、現代でも見られるような、よく言えば自由、批判的に言えば本尊軽視の風潮が生まれたのかもしれない、とのお話しでした。

そして、仏滅後2600年も経ってしまい、過去の様々な信仰の心の拠り所としての対象物が、形骸化してしまっている現在、我々は、どのようにお釈迦様への礼拝の想いを確立していけるのか?

ポイントは、以下の3点だったように感じました。

① ご本尊(=ブッダニミッタ)は、自分にとって「ただ一つのみ」にする。

② そのご本尊(=ブッダニミッタ)で、まず自分の心の内陣にシュラインを建立する。そして次に、その内的シュラインと相似になるような清浄な外的なシュラインを、自宅に建立する。

③ 日々、内的、外的の2つのシュラインにご供物を奉納し続け、洗練された荘厳方法で、浄化し続け、三宝との一体感を高め、自分のsaddhā、菩提心を最高度に高めていく。

①については、「ご本尊が定まっていない人は、saddhāも定まらない」という言葉が印象的でした。
確かに、せっかく自分の心に生まれた菩提心のパワーを分散させないためにも、「仏像なら何でも良い。荘厳様式も何でも良い。」という適当であいまいな態度は、戦略的ではないと感じました。

また、禅師が、ご本尊として、なぜ、このブッダニミッタをご選択されたのかという理由のお話がありました。

「無駄な装飾がなく、瞑想、随念が深まった時に心に現れるウッガハニミッタに極めて近いので、スムースに随念・瞑想に入ることができ、修行が進んでも、一生にわたり、さらに輪廻を越えて自分のニミッタとして確立できる」「仏像としては最も古いガンダーラ様式で作られた仏頭である」「禅師の経験上、これ以上、瞑想、随念に適したニミッタはない」「禅師を含め、過去世においてお釈迦さまと直接会った経験のある比丘達は異口同音に、このブッダニミッタのお顔は、実際のお釈迦様の醸し出す雰囲気に極めて近い、という印象を持っている」ことなどがあり、自らの全てを放棄して、仏法僧へ礼拝する為のシンボル、サイン、トリガーとして、非常に有用なものであるとご説明がありました。

②については、まず、自分の心の内陣にて、「アーナンダ長老が、毎日、お釈迦様、お釈迦様のダンマ、そして修行完成された先達の方々へ感じていた三宝への熱い想い」を想像し、「お釈迦様と24時間常に一緒に生活し、修行する気持ち」をブッダニミッタによって確立し、内的シュラインを建立する重要性が説かれていたように思います。
内的シュラインが存在した上で、はじめて、その熱い想いを的確に反映した外的シュラインが建立できるのだと思います。

③については、心の内的シュラインのご本尊へのご供物は、日々の自分の修行から生まれる五根であり、それらをご奉納し続けて行くとのことでした。
また、その心の内的シュラインの清浄性と呼応するような形で、外的な自宅のシュラインも如法に、そして、洗練された方法によってご供物によるご奉納を継続し、その具体的かつ実現可能な手法として、「打敷(うちしき)」「五具足(ごぐそく)」「三具足(みつぐそく)」などの荘厳方法を教えていただきました。

外的なシュラインを清浄に保つ最低限のこととして、毎日、シュラインの前で、「三礼拝」「三帰依」「五戒」「仏随念」「法随念」「僧随念」を、心を込めてお唱えすることが伝えられました。

また、傳修院として、「ご本尊(=ブッダニミッタ)」「 打敷 」については、参学者に、禅師のご祈願の後に、如法なシュラインを自宅で建立できるように、ご提供いただける予定との嬉しいお知らせもありました。

今回の原始仏教トークは、一点の迷いも無い、仏法僧の三宝への絶対的な帰依の気持ちを、「ご本尊(=ブッダニミッタ)」「内的シュライン」「外的シュライン」の3つのリンケージを通して、どのように自分の心に日々強固に確立し、saddhāや菩提心を最高度に高めていけるのかについての具体的な方法についてのご説明であったと思います。

いつも禅師に教えていただいていることですが、熱いsaddhāや菩提心がなければ、いくら難しいアビダンマを勉強しても、アナパナ瞑想を実践しても、修行は一歩も進まない。

自分にとっては、その教えを再確認できたご法話でした。

● ヴェーサカ祭法要

その後、「ヴェーサカ祭」が開催されました。

禅師によってヴェーサカ祭開催の法要がなされた後、参加者一同によって、仏随念が唱え続けられる中、一人一人、お釈迦様への感謝の想いを胸に、ご奉納していきました。

全員のご奉納が終わるまで、かなり長い時間になりましたが、その間、仏随念を唱え続けるというのは、他のすべてを忘れて、仏随念だけに没頭できる時間であり、とても厳粛なものでした。

● Q&A

この日、最後のパートはQAのセッションでした。

「腰痛への対処法」「どこまでがKammaによるvipākaといえるのか?」「自分に直接関係ない他人のkamma-vipākaに関して何か意見しても良いのか?」「お寺のご本尊の前で、自分の内なるブッダニミッタを礼拝するのは問題にならないのか?(お寺のご本尊が気分を損ねるなど)」「自分の思考で心をコントロールできるのか?」などに対してのご回答がありました。

自分にとっては、最後の質問に対するご回答が興味深かったです。

心路過程に表出する表面的な3つのmanasikāraの他に、心の深い部分(āsava、puñña、pāramīなど)にもmanasikāraが存在し、それらが心の舵取りをしているので、manasikāraをコントロールしない限り、心はコントロールできない。
それらが二十四縁起では、ārammaṇādhipati-paccayo, ārammaṇūpanissaya-paccayo, pakatūpanissaya-paccayo などと呼ばれているもので、無始無終の心の連続体の傾向性を決定付けている。

では、自分のmanasikāraをコントロールできるものは何なのか?
それは、思考ではなく、adhiṭṭhānaの力であり、強固なmanasikāraの心の傾向性の舵取りをコントロールするには、āsevana-paccayoの力を利用した力強いadhiṭṭhānaを長期に渡り続けるという地道な誓願力に頼るしかない。
そのadhiṭṭhānaはāsavaよりも深く浸透し、積み重ねが強固な基盤を確立し、やがて、manasikāraをコントロールし、āsavaを根絶することが出来る。
pāramī カードは、地道で力強いadhiṭṭhānaを長期に続ける強力なツールなので、有効活用して欲しいとのお話でした。

今回の原始仏教トークの「仏陀荘厳」にも、まだまだ自分のsaddhāや菩提心を育てる大きな可能性があったように、adhiṭṭhānaや誓願力もまだ全然有効活用出来ておらず、何か自分の仏道修行を一歩前に進める大きな鍵が隠されている気がしたので、自分なりにもう一度、現状を再検討してみたいと思いました。

参学者L

5/12ウポサタ傳修会&原始仏教トーク「智慧ある人 ー 高さではなく継続が本当の智慧をつくる」

本日もウポサタ瞑想会&原始仏教トークが行われました!

 

 

 

 

当日は会場の設営に間に合うように
朝7時半に傳修院に集合し車で会場まで向かいました。
もちろん運転をする前には心の中で仏随念等を唱え、
しっかりとプロテクトを行いました!

予定通り到着し、設営のお手伝いの為に早く来て頂いた方達と一緒に、
会場の準備を始めました。
毎回会場が違うので、お手伝いに来る方達は大変だと思います。
この日も音の出がおかしいなどのトラブルがあったようですが、
皆様の頑張りでなんとか時間前に設営を終えることができました。

音声機材の配線を覚えたり事前の荷物の積み込み等、
本当に大変な作業だと思いますが、
毎回当たり前のように一生懸命作業する姿を見ていると、
私も大きく励まされますし、
お釈迦様の教えを学び実践するために、皆で頑張るのは素晴らしいな、
という思いが生じて元気になります!!!

 

今日のアビダンマ講座は
第224回『二十四縁起前半まとめ』でした。

講義の最初に参学者の方が暗記したスタンザを暗唱するのですが、
私はいつも凄いな!という尊敬の眼差しで見ています。
このような真摯な修行者の方々がいる限り、
お釈迦様のダンマは今後も受け継がれていくだろうなと思い、嬉しくなります!

残念ながら私は講義を半分ぐらいしか理解できなかったので、
Vithi(心路過程)を中心に復習しようと思いました。

午後になると原始仏教トーク「智慧ある人 ー 高さではなく継続が本当の智慧をつくる」が
始まりました。

私は原始仏教トークが大好きです。
参学者以外の方でも参加できる貴重な機会なので、
少しでもお手伝いしようと毎回必ず参加するようにしています!

日々どうしたらもっと沢山の人達にお釈迦様のダンマをお伝えできるか?
ブッダサーサナ(お釈迦様の教えを聞ける時代)をより長く続かせるためには、
どうしたら良いのか?をいつも考えながらお手伝いをしています。

最近心がけているのは、
初参加の人や、普段あまり参加されない人達にとって、
参加しやすい雰囲気作り!です。

ということで、ブログをご覧の皆様にも、
今後とも色々協力して頂けると助かります!

今回の原始仏教トークで印象に残っているのは、
やはり信(サッダー)についてです。
マハーカルナー禅師は仏教の信とは、
「科学的・論理的に裏付けが取れたから信じる」というものではなく、
言葉を越えた、もっと本源的なものだと説かれています。
お釈迦さまやダンマを自然に信じる、純粋な善なる思いであると語られています。

例えば「アーナンダ尊者がお釈迦様に対して持っていた信が、
論理的科学的な事から生じた信だったのでしょうか?」と問われれば、
アーナンダ尊者が大好きな私としては、
確かにもっと純粋な信をお持ちだったのだろうと思うのです。

王族であるアーナンダ尊者やお釈迦様の育てのお母様ですら、
宮殿での贅沢な生活を捨てて出家するほどの信。
それは禅師の言われるように、
『善なるものを求める感覚』を伴うものだったのだと思います。

こればかりは頭で考えても決して理解できないから、
実践しなさいと禅師は繰り返し説かれています。
修行に行き詰ったら、
『道場に来なさい、作務をして修行をしなさい!』と。
そのような善意の実践を通して生じた信のみが、
本当の智慧を生み出すとの事です!

そうはいっても中々実践できないものですが、
私もつい最近、傳修院で、
お釈迦様のダンマを見たような出来事がありました。
そしてその後、本当に『涙が溢れて浄化された』感覚が生じたので、
ビックリすると同時に、
「お釈迦様の教えとはこのように学んでいくものなんだな」と、
少し理解が深まりました!!

普段中々傳修院にいけなくて、修行も苦手ですが、
原始仏教トークに参加すると、
何故か心の調子がとても良くなるので、
今後も頑張って参加し続けようと新たに決意しました。
今度の土曜日にはマインドフル・セミナーがあるので、
そちらのお手伝いも頑張ろうと思います!

参学者M

第50回原始仏教トーク「修行の天才」&ウポサタ

本日はウポサタ傳修会と原始仏教トーク同時開催でした。

場所は清澄庭園の涼亭にて行われました。池の上に佇む歴史的建造物で、ガラス張りの襖からの景色は絶景でした。庭園の木々に加えて池には鳥、鯉、亀など様々な生き物も見られて飽きることがありません。

そんな中まずはアビダンマ講座の24縁起中伝第23回です。24縁起の講義ではありますが、心路過程、界論絡めた内容になっており、1度学んだダンマを様々な角度から繰り返し説かれることで知識が深まっていくのが感じられます。暗記をすすめられたものはしっかりと自らの血肉として行きたいです。

休憩時間は縁側で池の景色を楽しみ、瞑想する参学者の姿も見られました。

続いて原始仏教トーク「修行の天才」です。
禅師から仏教の修行の天才になる方法が明かされました。

その方法とは仏教における様々な修行(三宝への信の確立、戒律護持、布施、ご奉仕、瞑想修行、アビダンマ学習、ダンマ暗記など)をすべて100点満点でいう70〜80点取れるよう精進するというもの。不得意分野をそのままに、得意分野ばかりしても仏教修行は円満成就しないとのことでした。不得意分野を底上げしてバランスをとった後、得意分野に取り掛かるのがコツだそうです。修行日誌をつけて失敗したことなども記録することで自らの不得意分野は見つかるということでした。

早速私も不得意分野である依法清浄に取り掛かりバランスを取ろうと決意しました!

来月は修行継続のコツについて語られるそうです。しっかりと襟を正し聞きたいと思います。

質疑応答では瞑想についてだけでなく、食について、世の動きとダンマについてなど皆さん自由闊達に質問され大変盛り上がりました。

今後も月に1回、アクセスの良い都内で原始仏教トークとウポサタ傳修会を開催する予定です。

回を追うごとにどんどん内容が充実して行っていますのでしばらく足の遠のいている方もご参加お待ちしています。

参学者C

第19回水曜瞑想会

今日は雨で寒さにもかかわらずいつもどおり参学者が集まりました。

昼の原始仏教セミナーでは私たちの制御し難い心をいかにして調教するかといった内容でした。

それらを踏まえたうえで、普段私達はどのような見方で現象を見ていくかといったことが語られました。

私達は日常では現象は常住であるかのように捉えており、そのようなに見てしまう癖がついています。

しかしそうではなく現象を瞬間的に生起消滅するものとして観る。例えそのように観る観知を得ていなくても、普段行う歩行瞑想や呼吸瞑想の際にそのことを随念することによって、いままでより一層瞑想が鮮明になってくることでしょう。

アビダンマの知識がついてくるにつれ、だんだんと話の内容が分かるようになってきます。

瞑想は辛抱のいることですが、これからも精進していきたいと思います。

参学者K

第49回原始仏教トーク

本日の法話を拝聴し、清らかな信というのは、得難きものだと思いました。

これを受けて1つ思い出したことがあります。
2016年、「将棋ソフト不正使用疑惑」というものが起こり、将棋の三浦弘行九段が対局において、スマートフォンを用いたカンニングが疑われました。
第三者委員会の調査により、疑惑の根拠の証言が、そもそも偽証だったことなどが明らかになり、三浦九段は、潔白と判明したのですが、まだ、そういった真相が不明な時期に屋敷伸之九段のコメントが印象に残っています。

「真相が全くわからないのでコメントしようがない。
個人的には三浦九段の人間性もわかっているので、不正をやるようなことはないと思う」。
(2016年10月27日朝日新聞)

「真相が全くわからないのでコメントしようがない」でコメントが、終わるのが普通だと思います。
私も、屋敷九段のような状況に追い込まれ、コメントを求められたら、こういったコメントをする可能性はあると思います。
しかし、屋敷九段は、続けて、「個人的には三浦九段の人間性もわかっているので、不正をやるようなことはないと思う」と表明しました。
屋敷伸之九段は、三浦弘行九段の人間性を信じたわけです。
私はこのコメントに、屋敷九段の同僚に対する「信」を感じました。


本日の原始仏教トークでは、「信(Saddhā)」には、幾つかのレベルがあるというお話でした。
そして、上記のお話は、1番目の「信を置く」とか2番目の「信用する」というレベルでまだ、Saddhāの本領というか、Saddhā Cetasikaが生起するレベルでの信ではないとのことです。
しかし、自分が三浦弘行九段のような窮地に陥った際に、どのくらいの職場など周りの人が、「あなたはそんなことはやらない人だ!私は信じる!」となるのかを思うと、上記のような「信」でも世間ではなかなか尊いものだと個人的には思います。
それでは、お釈迦さまが説かれたCetasikaレベルのSaddhāとは、何でしょうか。
以下に経典を引用します。

Vitakkavicārānaṃ vūpasamā ajjhattaṃ sampasādanaṃ cetaso ekodibhāvaṃ avitakkaṃ avicāraṃ samādhijaṃ pītisukhaṃ dutiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati.

「尋と伺の寂止のゆえに、内なる浄あり、心の一境性あり、尋なく伺なく、三昧より生じた喜と楽ある二禅に達して住し……」
(長部経典22 大念処経
光明寺様訳 http://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c09.htm)

禅師のお話によると、第二禅定で、踏ん張っているわけでもないのに、心が集中すべき対象に専注できるという不思議な体験を目の当たりにするとのことです。
それの圧倒的な体験によってBuddha Dhammaに対して絶大な清らかな信が生起する。
その清らかな「浄信」がsampasādanaṃということらしいです。

Saddhāの性情として、「輪転王の魔法のエメラルドの比喩」が印象に残りました。
どんなに濁った水でもその魔法のエメラルドを浸すと、濁った水が美しく清らかなものになる。
まさにそのように、Saddhā(信)というのは、心に生起すると、心の穢れが浄化され、疑念や疑惑、不善な濁った心が雲散霧消。霧が晴れたように清らかなものにものになる。
そのようなものだとのことです。

しかし、私が今まで学んできたテーラワーダ仏教(大寺派仏教)のSaddhāとは、
・Amūlikā saddhā(アムーリカー・サッダー 根拠がない信仰)中部経典95 チャンキン経
・Ākāravatī saddhā(アーカーラヴァティ サッダー 可能性が高い信 )中部経典60:無戯論経
あるいは、
・増支部三集五品カーラーマ経
など、
「Saddhāとは根拠のあるものを信じる科学的な信」とか
「○○だからと言って信じてはいけない」といったものでした。
しかし、マハーカルナー禅師によれば、それは経典の文脈を無視して、一部だけ切り取った誤った解釈だとのことでした。
例えば、カーラーマ経ですが、まずこれはあるバラモンに説かれたものです。
そして、バラモンが「いろんな人がいろんなことをいい。だれが本当かわからない」と言う。
それに対して、ブッダが、「さまざまなの宗教の経典など、全部鵜呑みにしないで、自分で、Kusala(善)かAkusala(不善)か確かめましょうね」
と言って、遠回しにバラモンの信を傷つけずに、仏道の世界に誘っている経典とのことでした。
確かに、ブッダの教えは対機説法。
あるバラモンとのある状況を受けての、「信じるなかれ」の教えをあらゆる場面においてあてはめるのは、問題があると思いました。
Amūlikā saddhā、Ākāravatī saddhāについても同様で、Saddhāという言葉は使っているものの、これはSaddhā CetasikaというParamattha Dhamma(究竟法)レベルの話でなく、世俗諦の信用レベルの話で、世俗諦の信用レベルの「信用に根拠がある/ない」という話を、Saddhā Cetasikaにまであてはめるのは、誤りであるとのことでした。

マハーカルナー禅師の言葉で印象に残った言葉で、
「仏教のすべてはSaddhāがあって初めて是認される」
という言葉がありました。

私は、以前から、一部のテーラワーダ仏教(大寺派仏教)になんとなくあまりよくない意味でドライな感覚、殺伐とした感覚を受けていました。
そのドライな感覚を説明すると、昔、「アッシー君」という言葉がありました。
女性が男性に対し、「終電とかで電話したら車で迎えに来てくれるから、便利だからとりあえずつきあっておくか」という感覚でつきあいます。そのお迎えに来るだけの男性を指し「アッシー君」という単語がありました。
この人間の「便利だからとりあえずつきあっておくか」という感覚。
これは打算ですが、この感覚に、なんとなく、人間の持つ殺伐としたドライさを感じていました。
そして、一部のテーラワーダ仏教(大寺派仏教)にもなにか、これに通じるドライさを感じていました。
最近、ラーマクリシュナの本を読み、温かい「ハート」を感じ、「そうか、欠けていたのはこれだったのか!」という発見がありました。

このドライな感覚の原因。
心胆を寒からしめるような感覚の原因。
殺伐とした感覚の原因。

今にして思えば、禅師のおっしゃる純粋なSaddhāの欠如だったのかもしれません。
そのようなことを最近思っていたので、
「仏教のすべてはSaddhāがあって初めて是認される」
という禅師に言葉が個人的にことさら重く響きました。

sampasādanaṃ。浄信。濁った水が、魔法のエメラルドで美しい清浄な水になるように、濁った心が清浄になるようなSaddhā。
これは、いわゆる「Ākāravatī saddhāーAmūlikā saddhā解釈」「カーラーマ経解釈」の延長線上に、あるかと問われた時、「確かにその延長線上にはない……」と感じました。

そして、Saddhā自体は無条件的な信であるが、Saddhā自体はPaññindriya(慧根)とバランスをとるという教えがあります。
これは、アビダンマなどDhammaを勉強することによって、Saddhāの方向性が正しいものに是正されていくということだそうです。

禅師のご法話を拝聴し、自分が長年感じていた、ドライな感覚、殺伐とした感覚の原因がわかったような気がします。
鍵は、Saddhā であると思います。
少しずついい方向に進めるように、随念などで、自分の中のSaddhāを育てていこうと思います。

参学者
筆名:玄沙師備

原始仏教トーク第48回

本日の原始仏教トークのご法話は、昨日、買って読んでいたラーマクリシュナの本とメッセージが被るところがあり、Synchronicityを感じました。

以下引用。

奉仕の道と無私の行為―世を助けること

「あんたのやっていることは善い仕事だよ。もし”オレ”がやっているんだ、というウヌボレを捨てて無私の心ですれば、そうすりゃすごく善いことだ。無私の行いを続けていると神様に対する信仰と愛が増してくる。無私の行いを続けているうちに神をつかむことができるよ。」

「あんたが慈善の仕事をするのは、本当はあんた自身のためになるんだよ。オレがしてやっているんだ、というウヌボレを捨てて、無私の心でそうしたことができるようになると、心が清まってきて神への愛がだんだん深まってくる。そして、あの御方(引用者註:神)をつかまえることができる」

引用終わり。
マヘンドラ・グプタ (著),‎ 田中 嫺玉 (翻訳) 『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉(コタムリト) 第一巻』ブイツーソリューション p.176-177

二番目の文の「神への愛がだんだん深まってくる。そして、あの御方をつかまえることができる」を「仏道修行を進ませることができる」と書き換えれば、概ね本日の、原始仏教トークの内容となります。

禅師のお話ですと、まず、修行の階梯として、
「信愛(Love)→奉仕(Devotion)→放棄(Surrender)」
のプロセスがあり、それらを行う意図(Intention)として、自利心、利他心、離見心があるというお話でした。
どの心も悪いものはない。
自分が死後、善い再生を得たいという自利心も決して悪いことではないが、自利心と(自利ベースの)利他心は、上記の「信愛(Love)→奉仕(Devotion)→放棄(Surrender)」という階梯を進む上で限界が生じてくるというお話でした。

禅師の言葉で印象に残ったのが、奉仕の心構えとして、
”not in my way, but in your own way”
(私の方法ではなく、あなたの方法で)という言葉でした。
また、「御心のままに」という言葉もありました。

私の体験として、年末から、仕事上で、仕事先の人とぶつかり、ストレスを感じていましたが、
先輩格の人に、相談したところ、「お客さんだから、素人だから」というようなことを言われ、たしかに、自分の考えたやり方や考え”in my own way”を相手にぶつけていたと反省しました。
なるべく相手の意向通りというスタンスにしましたら、精神的にも楽になったので、上記の言葉には腑に落ちる面がありました。

話を戻しますと、離見心とは、「オレが」「オレが」とか「私」「あなた」という境界線が消えた心とのことです。
上記のラーマクリシュナの言葉でいいますと、「<オレ>というものが消えた無私の心」なのかもしれません。
慈悲の行や、Ānāpāna Satiなどで、心が善なる心に満たされて、静寂になる。
そして、清らかな心に満たされ、まるでお釈迦さまと一体感を感じるような心―それが離見心とのお話でした。パーリ語で言えばNekkhammaに相当します。
そのような心で行えば、「信愛(Love)→奉仕(Devotion)→放棄(Surrender)」のプロセスをなんの限界もぶつかりもなく、進めていくことができるというお話でした。
そして、離見心という心の鍵となるのが、Saddhā(信)、Aspiration、
Samādhi(定)ということでした。
道元禅師にも、「学道はすべからく吾我をはなるべし」(『正法眼蔵随聞記』(ちくま学芸文庫)p.358)という言葉がありますが、この「我を離れる」というのは、
俗な話では、「我を捨てて仕事しろ」とか一般企業などでも聞く話です。
ブラック企業などでも聞く話です。
しかし、禅師のお話では、Saddhā(信)を置く対象、「御心のままに」という対象は、誰でも良いわけではなく、仏法僧などの善なる清らかな対象や、世俗であれば自分が学びたい上司などというお話でした。

離見心の鍵となるSaddhā(信)ですが、次回の原始仏教トークのテーマが、Saddhāだそうです。
上記のラーマクリシュナの本で、

「ハリ(ヴィシュヌ神の一名)や、ラーマ(ヴィシュヌ神の化身とみなされている古代の英雄。ラーマーヤナの主人公)の名を、一度でもとなえたら、たちまち体中の毛が逆立って涙がこぼれる」(p.73)

というSaddhāの描写がありましたが、
私も現在あまりSaddhāについてよくわかっていません。
理由として、私個人の問題以外に、
①戦後の唯物論的、無神論的教育
②新興宗教などによる「信仰」についての悪いイメージ
③分別説部の流れを組む論師による「Saddhāは、根拠のある条件付きのSaddhāである」という説(増支部カーラーマ経、スッタニパータの「信仰を捨てよ」、中部経典60無戯論経 ākāravatī saddhā根拠のある信 を根拠としてもの)
など、「Saddhāをわからせないように、Saddhāをわからせないように」という、Saddhāをわからせないような社会的な条件付けがあるように個人的には、思います。
そのため、ラーマクリシュナがおっしゃるような「たちまち体中の毛が逆立って涙がこぼれる」「体中が善なる清らかな心に浄化される」ようなSaddhāがピンとこない状況ですが、
ラーマクリシュナが「大実母カリー!」という圧倒的なSaddhā、神への愛が、あったのと同様に、ブッダと同時代に生きた弟子、尊者の方々も「お釈迦さま!」という圧倒的な清浄なるSaddhāがあったはずとは思っています。

今回の離見心の法話の理解を深め、
また、そういった不信、疑念に決着をつけるべく、
次回3月3日の原始仏教トーク第48回『Saddhā 仏教の信を科学する』を拝聴したいと思います。

(参学者)筆名:玄沙師備

第8回托鉢会&開山後初!原始仏教トーク

第8回托鉢会

今日初めて、念願の托鉢会に参加することが出来ました。
道場に到着すると、今日は午後から近くのホールで原始仏教トークがあるということで(久しぶりの再開です!)皆さんその準備に追われていました。
その手を一旦休めて、11時から托鉢会です。
様々な趣向を凝らした手作りの料理やお店で買ったお惣菜などが、テーブルに所狭しと並べられます。


以前伊豆の合宿に参加した時にも、この形式の食事を頂いたことがありましたが、新しい道場でのそれはまた、一味違った和やかな雰囲気がありました。

まず初めに、禅師がテーブルの端に手を添えられ、パーリ語で廻向を唱えられました。
後である参学者の方に聞いてみたところ、これは特に亡くなった自分の身内への功徳になるそうです。
次回からは、それをもっと意識してみようと思いました。
こういう一つ一つの行為や気持ちが、長年続けることできっと将来の大きな波羅蜜に繋がって行くのだなと感じました。
取り分られた料理はどれも美味しく、身体の元気と心の豊かさを両方もらえたような気がしました。


食事中のお話は、やっぱりメインは午後の原始仏教トークのあれこれについてです。
今日は久々に禅師からどんなお話が聞けるのか、皆今からわくわくしているのが感じられました。
私は、なかなか土曜日にお休みがとれないのですが、また次に参加出来る日が来るのを楽しみにしています。
禅師、参学者の皆さん、今日は素晴らしい時間をありがとうございました。

参学者Q

 

傳修院開山記念原始仏教トーク

本日、傳修院の開山以来、初めての原始仏教トークが開催されました!
以下、概要をご紹介いたします。お釈迦様の実践された仏教を学びたい方は是非ご覧下さい!

○「原始仏教を生きる」というタイトルには、「お釈迦様の教えを学び実践し、傳修院で修行者と共有して一緒に修行する」という決意を込めています。
○「原始仏教」は「テーラワーダ」とは異なります。「原始仏教」は、お釈迦様の入滅から100年後の第二結集(根本分裂)までの最も純粋な仏教であり、「テーラワーダ」は、お釈迦様の入滅から約1,000年後に確立した教えです(※1)。禅師は「原始仏教」の比丘であって、「テーラワーダ」の比丘ではありません(※2)。
○禅師は、パオ・セヤドーからkammaṭṭhāna(業処)の法脈を受け継ぎ、日本にダンマを伝えるよう求められました。傳修院でもパオ・セヤドーのダンマを伝えています。パオの名前は使っていませんが、パオ・セヤドーは”Name is not important. Dhamma is important”と仰っており、大事なのは名前ではなくダンマです。
○テーラワーダのマインドフルネスは、いわば「認識の言語化」であり、vitakka(尋)を助長してしまいます。また、「涅槃に至るのに禅定は要らない」という指導者もいますが、お釈迦様は「仏教の衰退はサマーディの軽視から始まる」と仰っています。
○原始仏教を学ぶ上で、傳修院以上の道場はありません。傳修院で学べる波羅蜜を活かし、涅槃証悟を目指して一緒に本気で修行し、原始仏教を生きましょう。

※1 根本分裂によって、仏教は①大衆部系、②上座部系、③分別説部の3つに別れました。スリランカの分別説部(大寺派)は、ブッダゴーサ長老が三蔵の注釈書と清浄道論を記したことで勢力を増し(5〜6世紀)、スリランカで唯一の派閥となって「テーラワーダ」を名乗り(12世紀)、現代東南アジアに広まりました。
※2 比丘戒を授かるときは、原始仏教を探求する比丘から「テーラワーダには属さず、原始仏教を探求する」許可とともに比丘戒を受けられました。また、アーナパーナサティを指導するときは、「テーラワーダ」のテキストである清浄道論ではなく、サーリプッタ長老の無碍解道論を用いられます。

質疑応答では、①マインドフルネスはsati(念)の訳であり、対象から外れずにとどまることであって、様々な対象を次々にラベリングするならばsatiは生じないこと、②瞑想の対象が何であれ、座る・立つ・歩く・横になるという4つの姿勢において続けて行うことが重要であること、③Macchariya(物惜しみ)はdosa(瞋)に属し、dosaは必ずlobha(貪)をベースにすること、④dosaはどんどん膨らみlobha以上に瞑想の障害になること、⑤清浄道論や解脱道論ではなく無碍解道論を用いる理由等が明かされました。

概要は以上です。私自身、禅師から原始仏教をご教示いただき、修行上の迷いがなくなりました。
原始仏教に興味を持たれた方は、是非、傳修院にご来山下さい。

次回の原始仏教トークは2月3日(土)です。ご参加をお待ちしております。

参学者 S