第50回原始仏教トーク「修行の天才」&ウポサタ

本日はウポサタ傳修会と原始仏教トーク同時開催でした。

場所は清澄庭園の涼亭にて行われました。池の上に佇む歴史的建造物で、ガラス張りの襖からの景色は絶景でした。庭園の木々に加えて池には鳥、鯉、亀など様々な生き物も見られて飽きることがありません。

そんな中まずはアビダンマ講座の24縁起中伝第23回です。24縁起の講義ではありますが、心路過程、界論絡めた内容になっており、1度学んだダンマを様々な角度から繰り返し説かれることで知識が深まっていくのが感じられます。暗記をすすめられたものはしっかりと自らの血肉として行きたいです。

休憩時間は縁側で池の景色を楽しみ、瞑想する参学者の姿も見られました。

続いて原始仏教トーク「修行の天才」です。
禅師から仏教の修行の天才になる方法が明かされました。

その方法とは仏教における様々な修行(三宝への信の確立、戒律護持、布施、ご奉仕、瞑想修行、アビダンマ学習、ダンマ暗記など)をすべて100点満点でいう70〜80点取れるよう精進するというもの。不得意分野をそのままに、得意分野ばかりしても仏教修行は円満成就しないとのことでした。不得意分野を底上げしてバランスをとった後、得意分野に取り掛かるのがコツだそうです。修行日誌をつけて失敗したことなども記録することで自らの不得意分野は見つかるということでした。

早速私も不得意分野である依法清浄に取り掛かりバランスを取ろうと決意しました!

来月は修行継続のコツについて語られるそうです。しっかりと襟を正し聞きたいと思います。

質疑応答では瞑想についてだけでなく、食について、世の動きとダンマについてなど皆さん自由闊達に質問され大変盛り上がりました。

今後も月に1回、アクセスの良い都内で原始仏教トークとウポサタ傳修会を開催する予定です。

回を追うごとにどんどん内容が充実して行っていますのでしばらく足の遠のいている方もご参加お待ちしています。

参学者C

第19回水曜瞑想会

今日は雨で寒さにもかかわらずいつもどおり参学者が集まりました。

昼の原始仏教セミナーでは私たちの制御し難い心をいかにして調教するかといった内容でした。

それらを踏まえたうえで、普段私達はどのような見方で現象を見ていくかといったことが語られました。

私達は日常では現象は常住であるかのように捉えており、そのようなに見てしまう癖がついています。

しかしそうではなく現象を瞬間的に生起消滅するものとして観る。例えそのように観る観知を得ていなくても、普段行う歩行瞑想や呼吸瞑想の際にそのことを随念することによって、いままでより一層瞑想が鮮明になってくることでしょう。

アビダンマの知識がついてくるにつれ、だんだんと話の内容が分かるようになってきます。

瞑想は辛抱のいることですが、これからも精進していきたいと思います。

参学者K

第49回原始仏教トーク

本日の法話を拝聴し、清らかな信というのは、得難きものだと思いました。

これを受けて1つ思い出したことがあります。
2016年、「将棋ソフト不正使用疑惑」というものが起こり、将棋の三浦弘行九段が対局において、スマートフォンを用いたカンニングが疑われました。
第三者委員会の調査により、疑惑の根拠の証言が、そもそも偽証だったことなどが明らかになり、三浦九段は、潔白と判明したのですが、まだ、そういった真相が不明な時期に屋敷伸之九段のコメントが印象に残っています。

「真相が全くわからないのでコメントしようがない。
個人的には三浦九段の人間性もわかっているので、不正をやるようなことはないと思う」。
(2016年10月27日朝日新聞)

「真相が全くわからないのでコメントしようがない」でコメントが、終わるのが普通だと思います。
私も、屋敷九段のような状況に追い込まれ、コメントを求められたら、こういったコメントをする可能性はあると思います。
しかし、屋敷九段は、続けて、「個人的には三浦九段の人間性もわかっているので、不正をやるようなことはないと思う」と表明しました。
屋敷伸之九段は、三浦弘行九段の人間性を信じたわけです。
私はこのコメントに、屋敷九段の同僚に対する「信」を感じました。


本日の原始仏教トークでは、「信(Saddhā)」には、幾つかのレベルがあるというお話でした。
そして、上記のお話は、1番目の「信を置く」とか2番目の「信用する」というレベルでまだ、Saddhāの本領というか、Saddhā Cetasikaが生起するレベルでの信ではないとのことです。
しかし、自分が三浦弘行九段のような窮地に陥った際に、どのくらいの職場など周りの人が、「あなたはそんなことはやらない人だ!私は信じる!」となるのかを思うと、上記のような「信」でも世間ではなかなか尊いものだと個人的には思います。
それでは、お釈迦さまが説かれたCetasikaレベルのSaddhāとは、何でしょうか。
以下に経典を引用します。

Vitakkavicārānaṃ vūpasamā ajjhattaṃ sampasādanaṃ cetaso ekodibhāvaṃ avitakkaṃ avicāraṃ samādhijaṃ pītisukhaṃ dutiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati.

「尋と伺の寂止のゆえに、内なる浄あり、心の一境性あり、尋なく伺なく、三昧より生じた喜と楽ある二禅に達して住し……」
(長部経典22 大念処経
光明寺様訳 http://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c09.htm)

禅師のお話によると、第二禅定で、踏ん張っているわけでもないのに、心が集中すべき対象に専注できるという不思議な体験を目の当たりにするとのことです。
それの圧倒的な体験によってBuddha Dhammaに対して絶大な清らかな信が生起する。
その清らかな「浄信」がsampasādanaṃということらしいです。

Saddhāの性情として、「輪転王の魔法のエメラルドの比喩」が印象に残りました。
どんなに濁った水でもその魔法のエメラルドを浸すと、濁った水が美しく清らかなものになる。
まさにそのように、Saddhā(信)というのは、心に生起すると、心の穢れが浄化され、疑念や疑惑、不善な濁った心が雲散霧消。霧が晴れたように清らかなものにものになる。
そのようなものだとのことです。

しかし、私が今まで学んできたテーラワーダ仏教(大寺派仏教)のSaddhāとは、
・Amūlikā saddhā(アムーリカー・サッダー 根拠がない信仰)中部経典95 チャンキン経
・Ākāravatī saddhā(アーカーラヴァティ サッダー 可能性が高い信 )中部経典60:無戯論経
あるいは、
・増支部三集五品カーラーマ経
など、
「Saddhāとは根拠のあるものを信じる科学的な信」とか
「○○だからと言って信じてはいけない」といったものでした。
しかし、マハーカルナー禅師によれば、それは経典の文脈を無視して、一部だけ切り取った誤った解釈だとのことでした。
例えば、カーラーマ経ですが、まずこれはあるバラモンに説かれたものです。
そして、バラモンが「いろんな人がいろんなことをいい。だれが本当かわからない」と言う。
それに対して、ブッダが、「さまざまなの宗教の経典など、全部鵜呑みにしないで、自分で、Kusala(善)かAkusala(不善)か確かめましょうね」
と言って、遠回しにバラモンの信を傷つけずに、仏道の世界に誘っている経典とのことでした。
確かに、ブッダの教えは対機説法。
あるバラモンとのある状況を受けての、「信じるなかれ」の教えをあらゆる場面においてあてはめるのは、問題があると思いました。
Amūlikā saddhā、Ākāravatī saddhāについても同様で、Saddhāという言葉は使っているものの、これはSaddhā CetasikaというParamattha Dhamma(究竟法)レベルの話でなく、世俗諦の信用レベルの話で、世俗諦の信用レベルの「信用に根拠がある/ない」という話を、Saddhā Cetasikaにまであてはめるのは、誤りであるとのことでした。

マハーカルナー禅師の言葉で印象に残った言葉で、
「仏教のすべてはSaddhāがあって初めて是認される」
という言葉がありました。

私は、以前から、一部のテーラワーダ仏教(大寺派仏教)になんとなくあまりよくない意味でドライな感覚、殺伐とした感覚を受けていました。
そのドライな感覚を説明すると、昔、「アッシー君」という言葉がありました。
女性が男性に対し、「終電とかで電話したら車で迎えに来てくれるから、便利だからとりあえずつきあっておくか」という感覚でつきあいます。そのお迎えに来るだけの男性を指し「アッシー君」という単語がありました。
この人間の「便利だからとりあえずつきあっておくか」という感覚。
これは打算ですが、この感覚に、なんとなく、人間の持つ殺伐としたドライさを感じていました。
そして、一部のテーラワーダ仏教(大寺派仏教)にもなにか、これに通じるドライさを感じていました。
最近、ラーマクリシュナの本を読み、温かい「ハート」を感じ、「そうか、欠けていたのはこれだったのか!」という発見がありました。

このドライな感覚の原因。
心胆を寒からしめるような感覚の原因。
殺伐とした感覚の原因。

今にして思えば、禅師のおっしゃる純粋なSaddhāの欠如だったのかもしれません。
そのようなことを最近思っていたので、
「仏教のすべてはSaddhāがあって初めて是認される」
という禅師に言葉が個人的にことさら重く響きました。

sampasādanaṃ。浄信。濁った水が、魔法のエメラルドで美しい清浄な水になるように、濁った心が清浄になるようなSaddhā。
これは、いわゆる「Ākāravatī saddhāーAmūlikā saddhā解釈」「カーラーマ経解釈」の延長線上に、あるかと問われた時、「確かにその延長線上にはない……」と感じました。

そして、Saddhā自体は無条件的な信であるが、Saddhā自体はPaññindriya(慧根)とバランスをとるという教えがあります。
これは、アビダンマなどDhammaを勉強することによって、Saddhāの方向性が正しいものに是正されていくということだそうです。

禅師のご法話を拝聴し、自分が長年感じていた、ドライな感覚、殺伐とした感覚の原因がわかったような気がします。
鍵は、Saddhā であると思います。
少しずついい方向に進めるように、随念などで、自分の中のSaddhāを育てていこうと思います。

参学者
筆名:玄沙師備

原始仏教トーク第48回

本日の原始仏教トークのご法話は、昨日、買って読んでいたラーマクリシュナの本とメッセージが被るところがあり、Synchronicityを感じました。

以下引用。

奉仕の道と無私の行為―世を助けること

「あんたのやっていることは善い仕事だよ。もし”オレ”がやっているんだ、というウヌボレを捨てて無私の心ですれば、そうすりゃすごく善いことだ。無私の行いを続けていると神様に対する信仰と愛が増してくる。無私の行いを続けているうちに神をつかむことができるよ。」

「あんたが慈善の仕事をするのは、本当はあんた自身のためになるんだよ。オレがしてやっているんだ、というウヌボレを捨てて、無私の心でそうしたことができるようになると、心が清まってきて神への愛がだんだん深まってくる。そして、あの御方(引用者註:神)をつかまえることができる」

引用終わり。
マヘンドラ・グプタ (著),‎ 田中 嫺玉 (翻訳) 『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉(コタムリト) 第一巻』ブイツーソリューション p.176-177

二番目の文の「神への愛がだんだん深まってくる。そして、あの御方をつかまえることができる」を「仏道修行を進ませることができる」と書き換えれば、概ね本日の、原始仏教トークの内容となります。

禅師のお話ですと、まず、修行の階梯として、
「信愛(Love)→奉仕(Devotion)→放棄(Surrender)」
のプロセスがあり、それらを行う意図(Intention)として、自利心、利他心、離見心があるというお話でした。
どの心も悪いものはない。
自分が死後、善い再生を得たいという自利心も決して悪いことではないが、自利心と(自利ベースの)利他心は、上記の「信愛(Love)→奉仕(Devotion)→放棄(Surrender)」という階梯を進む上で限界が生じてくるというお話でした。

禅師の言葉で印象に残ったのが、奉仕の心構えとして、
”not in my way, but in your own way”
(私の方法ではなく、あなたの方法で)という言葉でした。
また、「御心のままに」という言葉もありました。

私の体験として、年末から、仕事上で、仕事先の人とぶつかり、ストレスを感じていましたが、
先輩格の人に、相談したところ、「お客さんだから、素人だから」というようなことを言われ、たしかに、自分の考えたやり方や考え”in my own way”を相手にぶつけていたと反省しました。
なるべく相手の意向通りというスタンスにしましたら、精神的にも楽になったので、上記の言葉には腑に落ちる面がありました。

話を戻しますと、離見心とは、「オレが」「オレが」とか「私」「あなた」という境界線が消えた心とのことです。
上記のラーマクリシュナの言葉でいいますと、「<オレ>というものが消えた無私の心」なのかもしれません。
慈悲の行や、Ānāpāna Satiなどで、心が善なる心に満たされて、静寂になる。
そして、清らかな心に満たされ、まるでお釈迦さまと一体感を感じるような心―それが離見心とのお話でした。パーリ語で言えばNekkhammaに相当します。
そのような心で行えば、「信愛(Love)→奉仕(Devotion)→放棄(Surrender)」のプロセスをなんの限界もぶつかりもなく、進めていくことができるというお話でした。
そして、離見心という心の鍵となるのが、Saddhā(信)、Aspiration、
Samādhi(定)ということでした。
道元禅師にも、「学道はすべからく吾我をはなるべし」(『正法眼蔵随聞記』(ちくま学芸文庫)p.358)という言葉がありますが、この「我を離れる」というのは、
俗な話では、「我を捨てて仕事しろ」とか一般企業などでも聞く話です。
ブラック企業などでも聞く話です。
しかし、禅師のお話では、Saddhā(信)を置く対象、「御心のままに」という対象は、誰でも良いわけではなく、仏法僧などの善なる清らかな対象や、世俗であれば自分が学びたい上司などというお話でした。

離見心の鍵となるSaddhā(信)ですが、次回の原始仏教トークのテーマが、Saddhāだそうです。
上記のラーマクリシュナの本で、

「ハリ(ヴィシュヌ神の一名)や、ラーマ(ヴィシュヌ神の化身とみなされている古代の英雄。ラーマーヤナの主人公)の名を、一度でもとなえたら、たちまち体中の毛が逆立って涙がこぼれる」(p.73)

というSaddhāの描写がありましたが、
私も現在あまりSaddhāについてよくわかっていません。
理由として、私個人の問題以外に、
①戦後の唯物論的、無神論的教育
②新興宗教などによる「信仰」についての悪いイメージ
③分別説部の流れを組む論師による「Saddhāは、根拠のある条件付きのSaddhāである」という説(増支部カーラーマ経、スッタニパータの「信仰を捨てよ」、中部経典60無戯論経 ākāravatī saddhā根拠のある信 を根拠としてもの)
など、「Saddhāをわからせないように、Saddhāをわからせないように」という、Saddhāをわからせないような社会的な条件付けがあるように個人的には、思います。
そのため、ラーマクリシュナがおっしゃるような「たちまち体中の毛が逆立って涙がこぼれる」「体中が善なる清らかな心に浄化される」ようなSaddhāがピンとこない状況ですが、
ラーマクリシュナが「大実母カリー!」という圧倒的なSaddhā、神への愛が、あったのと同様に、ブッダと同時代に生きた弟子、尊者の方々も「お釈迦さま!」という圧倒的な清浄なるSaddhāがあったはずとは思っています。

今回の離見心の法話の理解を深め、
また、そういった不信、疑念に決着をつけるべく、
次回3月3日の原始仏教トーク第48回『Saddhā 仏教の信を科学する』を拝聴したいと思います。

(参学者)筆名:玄沙師備

第8回托鉢会&開山後初!原始仏教トーク

第8回托鉢会

今日初めて、念願の托鉢会に参加することが出来ました。
道場に到着すると、今日は午後から近くのホールで原始仏教トークがあるということで(久しぶりの再開です!)皆さんその準備に追われていました。
その手を一旦休めて、11時から托鉢会です。
様々な趣向を凝らした手作りの料理やお店で買ったお惣菜などが、テーブルに所狭しと並べられます。


以前伊豆の合宿に参加した時にも、この形式の食事を頂いたことがありましたが、新しい道場でのそれはまた、一味違った和やかな雰囲気がありました。

まず初めに、禅師がテーブルの端に手を添えられ、パーリ語で廻向を唱えられました。
後である参学者の方に聞いてみたところ、これは特に亡くなった自分の身内への功徳になるそうです。
次回からは、それをもっと意識してみようと思いました。
こういう一つ一つの行為や気持ちが、長年続けることできっと将来の大きな波羅蜜に繋がって行くのだなと感じました。
取り分られた料理はどれも美味しく、身体の元気と心の豊かさを両方もらえたような気がしました。


食事中のお話は、やっぱりメインは午後の原始仏教トークのあれこれについてです。
今日は久々に禅師からどんなお話が聞けるのか、皆今からわくわくしているのが感じられました。
私は、なかなか土曜日にお休みがとれないのですが、また次に参加出来る日が来るのを楽しみにしています。
禅師、参学者の皆さん、今日は素晴らしい時間をありがとうございました。

参学者Q

 

傳修院開山記念原始仏教トーク

本日、傳修院の開山以来、初めての原始仏教トークが開催されました!
以下、概要をご紹介いたします。お釈迦様の実践された仏教を学びたい方は是非ご覧下さい!

○「原始仏教を生きる」というタイトルには、「お釈迦様の教えを学び実践し、傳修院で修行者と共有して一緒に修行する」という決意を込めています。
○「原始仏教」は「テーラワーダ」とは異なります。「原始仏教」は、お釈迦様の入滅から100年後の第二結集(根本分裂)までの最も純粋な仏教であり、「テーラワーダ」は、お釈迦様の入滅から約1,000年後に確立した教えです(※1)。禅師は「原始仏教」の比丘であって、「テーラワーダ」の比丘ではありません(※2)。
○禅師は、パオ・セヤドーからkammaṭṭhāna(業処)の法脈を受け継ぎ、日本にダンマを伝えるよう求められました。傳修院でもパオ・セヤドーのダンマを伝えています。パオの名前は使っていませんが、パオ・セヤドーは”Name is not important. Dhamma is important”と仰っており、大事なのは名前ではなくダンマです。
○テーラワーダのマインドフルネスは、いわば「認識の言語化」であり、vitakka(尋)を助長してしまいます。また、「涅槃に至るのに禅定は要らない」という指導者もいますが、お釈迦様は「仏教の衰退はサマーディの軽視から始まる」と仰っています。
○原始仏教を学ぶ上で、傳修院以上の道場はありません。傳修院で学べる波羅蜜を活かし、涅槃証悟を目指して一緒に本気で修行し、原始仏教を生きましょう。

※1 根本分裂によって、仏教は①大衆部系、②上座部系、③分別説部の3つに別れました。スリランカの分別説部(大寺派)は、ブッダゴーサ長老が三蔵の注釈書と清浄道論を記したことで勢力を増し(5〜6世紀)、スリランカで唯一の派閥となって「テーラワーダ」を名乗り(12世紀)、現代東南アジアに広まりました。
※2 比丘戒を授かるときは、原始仏教を探求する比丘から「テーラワーダには属さず、原始仏教を探求する」許可とともに比丘戒を受けられました。また、アーナパーナサティを指導するときは、「テーラワーダ」のテキストである清浄道論ではなく、サーリプッタ長老の無碍解道論を用いられます。

質疑応答では、①マインドフルネスはsati(念)の訳であり、対象から外れずにとどまることであって、様々な対象を次々にラベリングするならばsatiは生じないこと、②瞑想の対象が何であれ、座る・立つ・歩く・横になるという4つの姿勢において続けて行うことが重要であること、③Macchariya(物惜しみ)はdosa(瞋)に属し、dosaは必ずlobha(貪)をベースにすること、④dosaはどんどん膨らみlobha以上に瞑想の障害になること、⑤清浄道論や解脱道論ではなく無碍解道論を用いる理由等が明かされました。

概要は以上です。私自身、禅師から原始仏教をご教示いただき、修行上の迷いがなくなりました。
原始仏教に興味を持たれた方は、是非、傳修院にご来山下さい。

次回の原始仏教トークは2月3日(土)です。ご参加をお待ちしております。

参学者 S