第16回托鉢会

本日は托鉢会でした。

ほぼ参加していますが、未だに新鮮です!
本日は炊き込みごはんもあり…みなさんの想いのこもった料理が集結です。

禅師へ食事をお布施させていただいた功徳を回向し、修行者として食に対し随念した後、食べ始めます。沈黙行にていただきますが、冷たい感じではなく静寂で素晴らしい雰囲気です。

終わった後は普段なら和やかな会話ですが、本日は原始仏教トークのため、みんなで協力して準備した後会場へ向かいました。

原始仏教トークの詳細なレポートもアップしていますのでご覧ください。

参学者C

第49回原始仏教トーク

本日の法話を拝聴し、清らかな信というのは、得難きものだと思いました。

これを受けて1つ思い出したことがあります。
2016年、「将棋ソフト不正使用疑惑」というものが起こり、将棋の三浦弘行九段が対局において、スマートフォンを用いたカンニングが疑われました。
第三者委員会の調査により、疑惑の根拠の証言が、そもそも偽証だったことなどが明らかになり、三浦九段は、潔白と判明したのですが、まだ、そういった真相が不明な時期に屋敷伸之九段のコメントが印象に残っています。

「真相が全くわからないのでコメントしようがない。
個人的には三浦九段の人間性もわかっているので、不正をやるようなことはないと思う」。
(2016年10月27日朝日新聞)

「真相が全くわからないのでコメントしようがない」でコメントが、終わるのが普通だと思います。
私も、屋敷九段のような状況に追い込まれ、コメントを求められたら、こういったコメントをする可能性はあると思います。
しかし、屋敷九段は、続けて、「個人的には三浦九段の人間性もわかっているので、不正をやるようなことはないと思う」と表明しました。
屋敷伸之九段は、三浦弘行九段の人間性を信じたわけです。
私はこのコメントに、屋敷九段の同僚に対する「信」を感じました。


本日の原始仏教トークでは、「信(Saddhā)」には、幾つかのレベルがあるというお話でした。
そして、上記のお話は、1番目の「信を置く」とか2番目の「信用する」というレベルでまだ、Saddhāの本領というか、Saddhā Cetasikaが生起するレベルでの信ではないとのことです。
しかし、自分が三浦弘行九段のような窮地に陥った際に、どのくらいの職場など周りの人が、「あなたはそんなことはやらない人だ!私は信じる!」となるのかを思うと、上記のような「信」でも世間ではなかなか尊いものだと個人的には思います。
それでは、お釈迦さまが説かれたCetasikaレベルのSaddhāとは、何でしょうか。
以下に経典を引用します。

Vitakkavicārānaṃ vūpasamā ajjhattaṃ sampasādanaṃ cetaso ekodibhāvaṃ avitakkaṃ avicāraṃ samādhijaṃ pītisukhaṃ dutiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati.

「尋と伺の寂止のゆえに、内なる浄あり、心の一境性あり、尋なく伺なく、三昧より生じた喜と楽ある二禅に達して住し……」
(長部経典22 大念処経
光明寺様訳 http://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c09.htm)

禅師のお話によると、第二禅定で、踏ん張っているわけでもないのに、心が集中すべき対象に専注できるという不思議な体験を目の当たりにするとのことです。
それの圧倒的な体験によってBuddha Dhammaに対して絶大な清らかな信が生起する。
その清らかな「浄信」がsampasādanaṃということらしいです。

Saddhāの性情として、「輪転王の魔法のエメラルドの比喩」が印象に残りました。
どんなに濁った水でもその魔法のエメラルドを浸すと、濁った水が美しく清らかなものになる。
まさにそのように、Saddhā(信)というのは、心に生起すると、心の穢れが浄化され、疑念や疑惑、不善な濁った心が雲散霧消。霧が晴れたように清らかなものにものになる。
そのようなものだとのことです。

しかし、私が今まで学んできたテーラワーダ仏教(大寺派仏教)のSaddhāとは、
・Amūlikā saddhā(アムーリカー・サッダー 根拠がない信仰)中部経典95 チャンキン経
・Ākāravatī saddhā(アーカーラヴァティ サッダー 可能性が高い信 )中部経典60:無戯論経
あるいは、
・増支部三集五品カーラーマ経
など、
「Saddhāとは根拠のあるものを信じる科学的な信」とか
「○○だからと言って信じてはいけない」といったものでした。
しかし、マハーカルナー禅師によれば、それは経典の文脈を無視して、一部だけ切り取った誤った解釈だとのことでした。
例えば、カーラーマ経ですが、まずこれはあるバラモンに説かれたものです。
そして、バラモンが「いろんな人がいろんなことをいい。だれが本当かわからない」と言う。
それに対して、ブッダが、「さまざまなの宗教の経典など、全部鵜呑みにしないで、自分で、Kusala(善)かAkusala(不善)か確かめましょうね」
と言って、遠回しにバラモンの信を傷つけずに、仏道の世界に誘っている経典とのことでした。
確かに、ブッダの教えは対機説法。
あるバラモンとのある状況を受けての、「信じるなかれ」の教えをあらゆる場面においてあてはめるのは、問題があると思いました。
Amūlikā saddhā、Ākāravatī saddhāについても同様で、Saddhāという言葉は使っているものの、これはSaddhā CetasikaというParamattha Dhamma(究竟法)レベルの話でなく、世俗諦の信用レベルの話で、世俗諦の信用レベルの「信用に根拠がある/ない」という話を、Saddhā Cetasikaにまであてはめるのは、誤りであるとのことでした。

マハーカルナー禅師の言葉で印象に残った言葉で、
「仏教のすべてはSaddhāがあって初めて是認される」
という言葉がありました。

私は、以前から、一部のテーラワーダ仏教(大寺派仏教)になんとなくあまりよくない意味でドライな感覚、殺伐とした感覚を受けていました。
そのドライな感覚を説明すると、昔、「アッシー君」という言葉がありました。
女性が男性に対し、「終電とかで電話したら車で迎えに来てくれるから、便利だからとりあえずつきあっておくか」という感覚でつきあいます。そのお迎えに来るだけの男性を指し「アッシー君」という単語がありました。
この人間の「便利だからとりあえずつきあっておくか」という感覚。
これは打算ですが、この感覚に、なんとなく、人間の持つ殺伐としたドライさを感じていました。
そして、一部のテーラワーダ仏教(大寺派仏教)にもなにか、これに通じるドライさを感じていました。
最近、ラーマクリシュナの本を読み、温かい「ハート」を感じ、「そうか、欠けていたのはこれだったのか!」という発見がありました。

このドライな感覚の原因。
心胆を寒からしめるような感覚の原因。
殺伐とした感覚の原因。

今にして思えば、禅師のおっしゃる純粋なSaddhāの欠如だったのかもしれません。
そのようなことを最近思っていたので、
「仏教のすべてはSaddhāがあって初めて是認される」
という禅師に言葉が個人的にことさら重く響きました。

sampasādanaṃ。浄信。濁った水が、魔法のエメラルドで美しい清浄な水になるように、濁った心が清浄になるようなSaddhā。
これは、いわゆる「Ākāravatī saddhāーAmūlikā saddhā解釈」「カーラーマ経解釈」の延長線上に、あるかと問われた時、「確かにその延長線上にはない……」と感じました。

そして、Saddhā自体は無条件的な信であるが、Saddhā自体はPaññindriya(慧根)とバランスをとるという教えがあります。
これは、アビダンマなどDhammaを勉強することによって、Saddhāの方向性が正しいものに是正されていくということだそうです。

禅師のご法話を拝聴し、自分が長年感じていた、ドライな感覚、殺伐とした感覚の原因がわかったような気がします。
鍵は、Saddhā であると思います。
少しずついい方向に進めるように、随念などで、自分の中のSaddhāを育てていこうと思います。

参学者
筆名:玄沙師備

第16回水曜瞑想会

本日は水曜瞑想会でした。

今日の法話の概要は以下の通りです。

普段私達が物を見るとき、ただ色のみを観ているのではなく、概念によって把握しているといった話を先週しました。

私達の心は日常的に過去の事や未来について、または概念の世界をさまよっており、一時も、「今この瞬間」にとどまっていません。

「今この瞬間」とは一切の思考を離れてものを感じる世界であり、まさにそこにこそ苦の終焉への鍵があるのです。

Ānāpānasatiでは一切の思考から離れ、今この瞬間の瞑想対象に止まることが土台になります。

これ無しにĀnāpānasatiを語ることはできず、これが無ければ一歩も前に進まないのです。

「この瞬間」に止まることは実際に可能なのです。

例えば、電車の車窓から景色が流れていくのを眺めるとして、今見えたものは家だ、車だ、などと思慮を交えず、見たままで止まるようにしてください。

そして「この瞬間」に止まるということを昼夜随念するようにしてください。

以上が法話の大体の内容です。詳しくはいずれアップロードされる法話を聴くのがよいでしょう。

参学者K

2月25日ウポサタ傳修会

原始仏教に出会って5年半、禅師の瞑想会には3年ほど前から参加させていただいております。

今日は朝10時の瞑想から参加しました。

午後のアビダンマ講座は、二十四縁起の倶生縁の三回目、28種のRūpaの分類と各生成因についてのReviewの後半です。
このあたりは私も一通り学んでいるのですが、やはり結構忘れていて、よい復習になりました。

ウポーサタ日曜瞑想会のハイライトは「修行者のためのアビダンマ講座」ですが、私個人としては、質疑応答や修行報告に基づくアドバイスなども、とても楽しみにしています。
皆さんの疑問や悩みに禅師が答えていくのがとても面白く、参考になり、そして心打たれることが多いからです。

私は仏教をはじめる前から、ずっと楽器を習っているのですが、以前師事していた先生から「とにかく課題曲を暗譜してしまえ、そうすれば音楽表現の方に集中できるから」とよく言われていました。
当時は暗譜するのが面倒であまりしませんでしたが、最近禅師がよく話題にされるダンマの暗記も、それと同じようなものかな、と感じています。
憶えてしまえば自由になり、それについて深く掘り下げて考察することが可能になります。

そんなことを考えながら、今日も修行報告に基づくアドバイスを、楽しく聞かせていただきました。

参学者KI

第15回托鉢会

本日は托鉢会に参加致しました。参学者の準備した料理がところ狭しと並びます!見ているだけで楽しい気分になってきますね。

今回は参学者のご家族も参加され、比丘に食事のお布施をするという貴重な経験をされました。
托鉢会がきっかけで仏教に親しみ、興味を持たれるようなことがあると素晴らしいですね。

食事前には食厭想、四資具の随念を行い、修行者として食への思いを静かに確立させていきます。

食事の後も、参学者のみなさんは今回初の開催となった座蒲作り(なんとカバーから!)に参加されたり、普段出来ないような作務をしたり、もちろん瞑想修行されたり各々充実した時間を過ごしました。

ウポサタ瞑想会とはまた違った趣がありますので、まだ未経験の方是非ご参加お待ちしております!

参学者C

第15回水曜瞑想会

水曜瞑想会は、仕事の喧騒から離れ、道場の清浄かつ静謐な空間で修行に専念することができる、とても貴重な機会です。

本日の法話のテーマはYathābhūtadassana(如実知見)です。以下に概要を記載します。

例えば時計を見るとき、私達は何を見ているのでしょうか。それは、一瞬一瞬生起消滅する色の粒子です。時計の形や時間の認識は、これまでの経験に照らして色彩から推定したものです。

このように、「時計を見る」という行為は、①多様な色彩を見る行為と、②色彩から形を推察し、同様な形を過去の経験から探し出し、「時計」と認識する行為が交錯しています。第1の行為はparamattha(勝義諦)、第2の行為はpaññatti(施設)であり、明らかに異なる行為です。

「今この瞬間の現象をあるがままに見る」には、多様な色彩を見るだけにして、思考を除去します。通俗的なmindfulnessは、対象の名前を「山、家、道」などとlabeling、notingしており、あるがままに対象を見ていないため、mindfulとは言えません。

雨粒一滴が落ちるとき、雨粒が動くのではなく、rūpaはその場で生起消滅し、次の瞬間にわずかに下方で新たな雨粒が生起消滅しています。このように、いかなる現象も「生起した場所で」消滅しますので、「あるがままに見る」とは、新たに生起しては消滅し続ける色彩を見つめ続けていくことです。思考が入りこんではいけません。

同様に、Ānāpānasatiでは、入息・出息を考えてはならず、息が当たる感覚を感受し、次の瞬間に新たに空気が当たる感覚を感受することを繰り返す(第1の行為をし、第2の行為はしない)ことが必要です。

五門の全ては今この瞬間の感覚だけを感受し、過去の感覚は感受できません(過去の感覚の追体験は思考です)。したがって、「今この瞬間にありのままに気づく」とは、「この瞬間において対象を感受し、次の瞬間にまた新たに生起した対象を感受することの連続」です。これこそがmindfulであり、 Yathābhūtadassana です。

この基本原理をcankamaで随念し、「この瞬間を感受する」とはどういうことか、本当に深いところで理解するようにしてください。

法話の概要は以上です。とても精妙で深い内容であり、私はまだ随念しかできませんが、1日も早く如実に見られるように精進したいと感じました。

参学者 S

2月18日ウポサタ傳修会

朝、電車の中で、宿題の二十四縁起中伝の暗記をしつつ、傅修院に。
10時前に到着、お布施・アディッターナの後、10時から11時半まで瞑想。開始時、瞑想室にはいつものメンバーが5名ほど。私は普段、10分単位でアーナパーナをやっているのですが、この時ばかりはフリーライドで、長時間の瞑想にトライしています。
そして、12時から30分程の受戒とチャンティング。禅師の姿を直に見て、気持ちが引き締まります。


13時から「修行者のためのアビダンマ講義#212 パッターナ中伝14」が始まり、今回は二十四縁起の倶生縁の講義2回目。冒頭、恒例のスタンザの暗唱テストがあり、事前に心に決めてきた通りに最初に挙手、ドキドキしながら暗唱の初デビューを果たしました。講義では、この縁起理解の基礎として、Rūpaの丁寧な復習をやって頂きました。Rūpaの復習は次回も続きます。


その後、休憩を挟んで質疑応答のパート。経の語句の解釈、修行法等に関する修行者からの様々な真摯な質問に、いつものように禅師が一つ一つ、丁寧に答えてゆかれます。
15時半頃、参加者の集合写真を撮って、傅修会は終了しました。

今回の傅修会では、修行における暗記・暗唱の重要性のお話がありました。現在、我々は二十四縁起中伝を講義頂いており、各縁起の学習の最初のステップとして、スタンザ暗唱の指示を頂いています。内容が分からず、パーリの文法も分からない状態での暗唱は、正直辛いものがあります。でも最初に一旦、とにかく頭の中に入れてしまうことで、その後は本・資料から離れ、暗唱したスタンザを依りどころに機動的に内容の理解を進めて行ける、そして更に随念による深い理解や、最終的にはヴィパッサナーによるパラマッタレベルでの理解・実証につなげて行くことができる、というお話でした。二十四縁起に限らず、アビダンマ全般の暗記が半端なままの自分としては、まずは現在進行中の二十四縁起中伝に関して、講義の進捗に合わせて暗記を積み上げで確実にこなして行きたいと思います。

参学者TK

第14回水曜瞑想会

会社帰りの水曜瞑想会、前半30分間は禅師・参加者の皆さんとともに坐ります。傳修院の瞑想室で坐っていると心に安心を感じます。個人的な感想ですが、安心して瞑想できる場があるのは本当にいいなあ、と思います。

今日は、長く体調を崩されてお休みされていたOさんのお姿もありました。Oさんがいらっしゃるとなぜか、より安心します。「電気関係のプロだから何か壊れてもすぐ直してもらえる!」と思うからでしょうか…いえいえ、Oさんのお人柄のおかげです。
私はアーナパーナサティ実践もまだまだ初心者で、坐ることに一生懸命、いまのところ瞑想は楽しく好きですが、これから先は本当に長そうです。それだけに安心して坐れる傳修院の瞑想室の存在は非常に助かります。


さて、今日の法話は「日々の生活の中でプロテクションをお願いすること」についてでした。
プロテクションをお願いするとは、日常生活での思わぬ災難や事故、また、そこまでいかなくともアスピレーションがそこなわれるような事態、そうしたことが起こらないように仏法僧にお願いすることです。
まず、ブッダニミッタを常に所持するようにし、1分ほどの短い瞑想をした後、そのブッダニミッタをみながら(ない場合は想起しながら)Namo tassa〜、そしてpatthanuddeso(Hetu-paccayo, Arammana-paccayo~)を唱えます。
パッターナウッデソは強力なプロテクションとのことです。
その後、これから行うことの安全・安寧をお願いします。
そしてその事柄が無事終わったら、Namo tassa〜、三帰依、そして「どうもありがとうございました」と感謝し、廻向して終了です。
禅師は、小さなことだがとても大切なことです、と仰っていましたが、本当にその通りですね。
仕事や勉強、試験や車の運転、大事な商談の際など、また、何か災難がありそうなときなど、日常の出来事の前後に是非実践したいと思います。

参学者SA