2018/10/03 第47回 水曜瞑想会

本日は水曜瞑想会に参加しました。心地よい静寂の中、30分間の瞑想では、先日のメディテーション・ワークショップで学んだ調身・調息からじっくりと瞑想に入っていき、あっという間に終了の鐘が鳴りました。

続いて無礙解道の伝法です。今日から大念処経、安般念経に記されているアナパナサティのスタンザの解説が始まりました。

本日は前文の「森、樹下、空き家にて結跏し、身を真直にして念を現前に置き正に入出息する」という部分の読解でした。原文のパーリ語を1つ1つ参照しながら丁寧に解説いただいたのでとてもわかりやすかったです。

個人的に感銘を受けたのは「アナパナサティの対象であるTouching Point(呼吸が皮膚に接触する点)は禅定への入り口」ということです。
その大切な入り口を瞑想中に容易に見失ってしまうのは、接触点に対して念をもって専注するべき「心」が、専注を離れて移ろってしまうからだ、と感じました。決して見失わないよう修習を深めていきたいと思います。

次回の伝法は来たる土曜日、托鉢会の後のリトリート伝法となりますが、アナパナサティ修行者にとって最も馴染みのある「長い息を吸いながら…」のスタンザの解説に入っていくとのことなので、とても楽しみです。

参学者C

9/30ウポサタ傳修会

台風24号が近づく中、帰り道に暴風雨に巻き込まれないか若干の心配を抱えながら、道場に向かいました。
今週のアビダンマ講座は、倶生縁のさらに詳細な分類法であるMahā-Sahajāta-paccayoグループの勉強をしました。


Sahajāta-paccayo、Nissaya-paccayo、Atthi-paccayo、Avigata-paccayoの四つの24縁起は、五つの同じスタンザから始まりますが、それぞれのスタンザについて、四つの縁起の観点から、全てのケースにおいて微妙なニュアンスの違いを見ていく、というものでした。
ヴィパッサナー瞑想は、煩悩を根絶やしにするための「もぐらたたき」のようだと言われますが、例えるならば、煩悩の根を根絶させるために、「四つの微妙な縁起の観点」×「全てのケース」において、数限りない様々な方向からたたき続け、メッタ斬りにするイメージなのかなと思いました。

 

煩悩を根絶やしにする方法として、深遠な縁起についてあまり理解せず、単純に一方向から踏みつけるだけでも、なんとかなるのかもしれませんが、そのたたき方しか知らなければ、非常に長い時間がかかると思われます。 お釈迦様のサーサナが終わってしまい、この期間においてはゲームオーバーとなってしまう可能性も高いのかもしれません。

もし、煩悩を根絶やしにするもぐらたたきの方法を、いくつも知っているのならば、煩悩の根は、様々の方向から、鋭いVipassanā paññāによってメッタ斬りにされ、格段に早く根絶やしにすることが可能なのだと思われます。

禅師の「アビダンマッタサンガハレベルのCitta、Cetasika、Rūpa、Vīthiなどの知識はただの部品であり、お釈迦様は深遠な「縁起」を所縁としたVipassanā瞑想で成道されたことを忘れてはならない。」 というお言葉が印象的でした。

CI(瞑想指導)のコーナーでは、 「ラーマクリシュナのSaddhāについて」「加持開眼の意味について」 「修行日誌について」 「SotāpannaやSakadāgāmīの煩悩について」 などのお話がありました。

最近の伝法講義では、 Saddhāについては「観行の重要性」、Paññāについては、本日の講義のような「Paramattadhammaを、より詳細で深遠なアビダンマの理解によって、メッタ斬りにする為の随観の具体的方法」など、過去5年間の講義ではあまり開示されてこなかった、さらに一段ステップアップした、本格的な修行者に向けてのダンマが開示されているように感じます。

現在の私には、どれをひとつとってもまともにできるものはなく、また全て非常に時間の掛かる修行であり、これから先の長い道のりに途方に暮れてしまう部分もありますが、気負うことなく楽しみながら修行を続けていきたいなと思いました。

参学者L

第2回メディテーションワークショップ-初心者のためのアナパナサティ-

「今日は雨の中いらっしゃって下さってありがとうございます」という禅師の一言で始まった初心者のためのアナパナサティ講座。大型の台風の接近を間近に控え、生憎の空模様でしたが、告知されてからそれほど長い期間がなかったにも関わらず、傳修院広報担当のOさんの努力の甲斐あって、多くの初参加の方々がお見えになりました。

場所は観音様で有名な浅草寺のすぐ側にある浅草公会堂。歌舞伎をはじめとする大衆芸能の殿堂で、約四十年の歴史があるそうです。その四階にある畳敷の集会室で、この講座が開かれました。浅草は今まであまり来たことがなかったのですが、新宿や渋谷とはまた違った趣の、独特の活気のある繁華街です。外国人観光客の姿も目立ち、着物姿の人も多く、「和」のテイストが前面に出ています。禅師も「若者に今最も人気のある街の一つらしいですね」とおっしゃっていました。


講座の内容は、大きく分けれ三つのセクションからなっていました。まず初めに、アナパナ瞑想それ自体に入る前段階として、周囲の環境も含めた身体の整え方、及び心の整え方について、詳しい説明がありました。次に、アナパナサティの定義と特徴、他の瞑想法との相違点、基本的なやり方、注意すべきポイントなどについてのお話があり、最後に参加者から寄せられた様々な質問に対する回答がありました。どのセクションの内容もとても簡潔で分かりやすく、活き活きとした語り口で、初心者が持つであろういくつかの疑問点や、陥りがちなミスに対しても、予め先回りして丁寧に解説して下さいました。

ここにとてもその全てを書くことはできませんが、いくつか印象に残った内容をピックアップしてお伝えします。傳修院でも普段から禅師が再三強調されていることですが、瞑想それ自体の重要性にも増して、「前行」「後行」が大切だということ。これが上手にできるかどうかで、全く瞑想のレベルが変わってきます。それから、短くてもいいから、毎日継続することが肝要だということ。「何も思考しない時間を持つ」ということの大きな意義。「座ってやることのみが瞑想」というのは誤った固定観念で、瞑想はスッタニパータの「慈経」にあるように、座っても、立っても、歩いても、横になってもできること。アナパナ瞑想の対象である入出息以外に注意が逸れたり、雑念が湧いたときは、ラベリングなどの技法より、ただシンプルに「さらり、さらり」と流してしまうのが最適だということ。瞑想を急にストップして、いきなり日常生活に戻るのは心を傷つけてしまう危険性があり、できるだけ時間に余裕を持って、余韻を楽しみながらゆっくりと瞑想を終えることが大事ということ。これらは講義のほんのごく一部です。個人的には、これらの内容がいつか書籍化されて、より多くの人に伝わったら素晴らしいなと思います。

一時間半ほどのお話の後、傳修院の典座であるIさんお手製の美味しいチャイがふるまわれ、その後質疑応答のコーナーに移りました。「瞑想中眠くなるのですが」「なるべく早く瞑想モードに切り替えるにはどうしたらよいですか」「雑念で集中が途切れてしまいがちです」「長いほど良い瞑想ですか」など、基本的ではあっても、どの瞑想修行者においても共通する、非常に切実な内容の質問が寄せられました。初めて来られた参加者の方々の、瞑想に対するモチベーションの高さと真剣さが伝わってきて、大変感銘を受けました。

私自身もこのセミナーに参加して、また明日からの瞑想修行に、新たなエネルギーをもらったように思いました。惜しむらくは、あっという間に所定の時間が過ぎてしまい、もう少しだけ余裕があればなあと感じました。そのくらい講師と参加者の心が一つになった、濃密なセミナーでした。

今後も二か月にいっぺんのペースで初心者向けの瞑想講座が開かれる予定だそうなので、関心のある方は時々傳修院のホームページをチェックしてみて下さい。次の講座が楽しみです。

参学者Q

第45回托鉢会

2018/09/29 托鉢会
本日は「マインドフル・セミナー」前の托鉢会でした。
料理は、煮物系が多く体にも良さそうでした。

本日のメニュー

・根菜の味噌煮


・筑前煮


・ごぼうのサラダ


・酢豚


・大根の梅酢漬け

自分で料理を作って来られる方もいますが、私は近くの弁当屋で出来合いのものを買ってきました。
たとえ「人様に差し上げられる料理などとても作ることが出来ない」、もしくは「多忙でありとても料理を作る時間的余裕がない」という方であっても、調理済みの惣菜を買い求めたり、あるいは食材を買うための浄財を道場にお布施させていただくなど、色々な参加の仕方があると思います。

また、以前お話しいただいたこともあったかと思いますが、托鉢会は参学者同士、親交を深めるための「持ち寄りランチ会」などではありません。今の日本ではほとんど機会がなくなってしまった「比丘に食事のお布施をする」という仏教の基本を実践できる、たいへん貴重な積徳の場であるということを改めて認識しました。
料理を持っていけないので托鉢会に参加せず、午後の講義から参加される方もおられるようですが、禅師は譬え料理を持っていくことができなくても、できるだけ多くの方々が托鉢会に参加されることを希望されておられます。
最近でははそういった意識が希薄になりつつありましたが、今後は時間の許す限り、このような有難い機会を逃すことのないようにしていきたいと思います。

参学者K

第46回水曜瞑想会

冷たい雨の中を水曜瞑想会目指して歩きます。住宅街の夜の暗がりに傳修院をみつけると瞑想室の窓にほんのり明かりが灯っているのがみえました。その暖かな明かりをみてなんだかホッとしたような気持になります。水曜瞑想会はまず30分の瞑想からスタートしますが、心から安心して坐れる場所がある、ということはありがたいことだと毎回実感します。安心して坐ることができる場所だと瞑想の質が違うように感じますし、瞑想後の余韻も気持ち良いものに感じられます。

本日の法話は無礙解道入出息論 Lokoti(世間論)です。お釈迦様の世間における役割について説かれたものとのことです。

禅師が以前おっしゃられたように、瞑想前にお釈迦様の徳について隨念することは非常に大切なことのようです。お釈迦様の智慧、お釈迦様の慈悲、お釈迦様の清らかさなどを自分の内に想うことで自らの中にそうした智慧、慈悲、清らかさが育っていくように私にも少しだけですがそのように感じられます。

…ところが、このことにともなって最近よく考えるのは、実は私はお釈迦様のことをよく知らない、という事実です。

確かに、私は子どもの頃にお釈迦様が主人公の絵本をみていた記憶がありますし、神社仏閣が大好きで以前は浅草寺、川崎大師、成田山新勝寺などのお寺に月参りしたり、禅寺の坐禅会に参加したりしていた時期もありました。
般若心経や観音経、維摩経といった御経に関心を持ち解説書を読んだり、仏像が好きになって博物館の仏像展を見に行ったりもしました。ですから、自分は仏教を少しは知っているのだと思っていたのです。
しかし考えてみると、私は仏教をお説きになった肝心要のお釈迦様のことをよく知らないのです。
お釈迦様よりは、空海や白隠の業績の方を詳しく知っているかもしれません。パーリ経典はそのほんの一部分しか読んだことがありません。「信」という点でも釈迦如来像より観音様や不動明王に親近感を抱いてお祈りしていました。

お釈迦様とはどのような方だったのか…。
そこで、現在は原始仏教関係のお釈迦様に関する書籍には努めて目を通すようにし、禅師からいただいた佛陀ニミッタは常に持ち歩いて折に触れ心にとめるようにしています。そして、この水曜瞑想会の法話では前回までの佛陀論、今回の世間論ともにお釈迦様がどのようなお方なのか、どのような徳をお持ちなのかが分かり、大変有益だったと感じます。

傳修院の参学者の方でインドを旅され佛陀の聖地を巡礼された方がおりますが、古の精舎跡で瞑想することによってもお釈迦様とそのお弟子たちの息吹を感じることができるとのことでした。もちろんその方は高い境地をお持ちの方ですが、私もできるだけお釈迦様を自分の内に感じることができるよう努めていきたいと思います。

無礙解道Lokoti(世間論)の解説は今回一回で終了ですが、無礙解道には短いながら素晴らしい内容のスタンザがたくさんあるとのことで、すべてでなくともその短いフレーズ(パーリ語と南伝大蔵経の訳文)だけでも覚えるのがよい、と禅師よりアドバイスがありました。私も少しずつでも前進できるよう精進したいと思います。

参学者S

9/23ウポサタ傳修会

今年は猛烈な暑さが続きましたがさすがにお彼岸ともなるとだいぶしのぎやすくなりました。
今日は午前の瞑想に途中から参加して、午後のアビダンマ講義と質疑応答まで受講しました。

アビダンマ講座は、二十四縁起の倶生縁の縁法と縁所生法の詳細な解説がありました。また次回以降に開示される予定の倶生縁のサブグループについても少し言及がありました。

Q&Aで印象に残ったのはSaddhāについてのお答えでした。
Saddhāという心所は対象を選ばない、対象がたとえイワシの頭であったとしても、本人の純粋な心からでたものであれば、燃え上がるようなShddhaが生じ得る、すべては修行者に生ずる燃え上がるような思い次第である、というお話でした。

もう一つ面白かったのが、一般の宗教は家のようなものであり、お釈迦様のダンマは道である、という譬えでした。
「普通の宗教は家」とは、家にはその価値体系、思想的体系があり、それを受け入れるなら誰でも家の中に入ることができる、家の中ではみんなといっしょに守られるし、それなり恩恵も受けられるだろう、ゴールまで達する必要もないし、人生のセコムみたいなもので、リスクを回避しながら安心して世間で生きていくことが目的だということです。

一方仏教は柔道や茶道のような道(どう)であり、「究めるべきもの」というのが前提にあるとのことでした。
家のように中で安心して落ち着いていればよい、という訳ではなく、常に前進すること、進歩することが期待されており、
師匠が手を引いてくれないととても進めない茨の道なので、2,3年で飽きてしまう人も多い、とお話しになりました。
そして、この道を進む根源的駆動力はSaddhaであるとのことでした。
この「2,3年で飽きる」というのと「Saddhaが駆動力」というのがポイントだと思いました。

たとえば稽古事やっていると誰でも2,3年経つと外面的な型は何となく覚えて、それっぽく見えるようになります。その時点で「こんなもんだ」と思って稽古そのものを辞めてしまったり、続けたとしても進歩が止まってしまう、そんなことが起こるのをよく目にします。やはりこれも駆動力であるSaddhaの枯渇に原因があるのだな、と思いました。

どんなことでも、自分が長年情熱を注いでやっている場合、情熱を燃やし続けるエネルギーと、仏教修行におけるSaddhaの関連性についてよく考えてみたい、と思いました。

参学者 KT

第44回托鉢会&無礙解道論伝法

本日は托鉢会に参加しました。
先週からリトリートが行われており、最近は「いつも誰かしら道場で修行している」という状態が出来つつあり、大変素晴らしいと思います。
今回は喜ばしいことに初参加の方もおられ、托鉢会では多彩な料理の数々が並びました。

明太ポテトサラダ

コールドチキンローズマリー風味

小松菜のおひたし

もやしのビビンバ仕立て

味付けメンマ

野菜のあさづけ

ミッスクビーンズピクルス

帆立とホッキ貝スープ仕立て

 

托鉢会の後、休憩をはさんで授戒と無礙解道の伝法がありました。
今まで数回に亘って行われてきた佛陀論の伝法は、本日で最後となります。


佛陀のその驚嘆すべき特徴について、詳細に解説頂き、「まだ自分は全然佛陀について分かっていないな」との感想を持ちました。
今回もお話がありましたが、果てしない期間波羅蜜を積んでこられたお方であり、簡単に理解したと言えるような存在ではありません。本講義で開示いただいたスタンザを沈思黙考し、理解を深め、お釈迦様への信を深めていきたいと思います。

その後はリトリートに入りました。私も最終日まで参加しますので法友達と駆け抜けたいと思います。

参学者C

第45回水曜瞑想会

夏の暑さもようやく終わり、会社を出るとすでに日は落ちすっかり暗くなっています。薄手のシャツだと少し肌寒いくらいで秋だなあ、と感じる今日この頃です。瞑想にはうってつけのこの季節、本日も水曜瞑想会に出席しました。

先ず禅師とともに30分の瞑想です。
気候が良くなり、仕事の疲れもあって、今日は途中から少し睡魔に襲われてしまいました。

 

その後、小休憩をはさんで無礙外道の佛陀論の伝法がありました。
お釈迦様の十五のお徳の最後、13~15番目のスタンザについての講義が行われました。
これらのスタンザでは、
① お釈迦様の修行道
② 修行により証悟された智慧
③修行の結果の省察
について開示されています。

まず①の修行道とは四念処法のこと。大念処経のUddesoに「涅槃に至るただ一つの道」と述べられているとおりです。
次に②は無上正等覚(最高の悟りの智慧)を現等覚(今まさに証悟)されたということ。
そして最後の③は、悟りの智慧にあらざるもの(すなわち一切のĀsava)を破壊・根絶することによって涅槃を証悟されたという意であるとの説明がありました。

Nibbanaの性質や働きは、言葉によって表現することは決して出来ないもので、
Nibbānaは「Nibbanaにあらざるもの、すなわちĀsavaを破壊することによって、Nibbānaに至る」というふうに、「~ではないもの」という否定の形でしか表しようがない、故にお釈迦様は「Nibbanaは語られるものではなく、体験されるべきものである」と説かれたのだということでした。

南伝大蔵経をただ読んだだけでは表面的な意味ですら分からないであろう「一行道」「正等覚」「現等覚」などの難解な仏教語を、原文であるパーリ語を分解して解説していただけるので非常に分かりやすく、正に傳修院でしか聴くことのできない無礙解道論の醍醐味だな、と改めて思いました。

今、机に置いてあるお釈迦様のニミッタの前でこのブログを書いています。
佛陀論で教えていただいた15種のスタンザを最初から読誦してみました。
暗記は一筋縄ではいかないかも知れませんが、よく復習し、少しずつ暗記をしながら、意味をご講義通りにちゃんと掴み、何時の日か、随念のレベルまで理解を深めることを目標に精進しようと思います。
お釈迦様と一体になれることができたらなんと素晴らしいことでしょう。
いつの日かそのようになりたいと強く、強く思います。

参学者N