第34回托鉢会

本日は托鉢会に参加しました。

私は出来合いのものを持参していますが、料理の得意な参学者は毎回クリエイティブなメニューを持参されています。味も美味しくここでしかたべれないようなものです!最近は道場で収穫された野菜も並んでいます。

 

 

桃とエビの白和え

 

 

 

 

そうめん風ナス

 

 

 

 

 

春菊とエノキのオイスター和え

 

道場のキュウリとトマト

 

 

 

 

 

ポテトサラダ

 

紀州の梅

 

 

 

 

 

托鉢会の後は禅師と自由にお話しできるのが特徴です。瞑想、戒律、御自身の修行体験など話題は多岐に及びます。

今日も長い時間、傳修院の新しいプロジェクトについての話題で盛り上がりました。
皆さんも美味しい食事と禅師との会話を楽しみに托鉢会に参加いただくといいと思います。

参学者C

 

第34回水曜瞑想会

 

 

 

 

水曜瞑想会は仕事とは打って変わって、静謐な雰囲気の中で瞑想に打ち込むことができるため、毎週楽しみにしています。会社を出てから道場までの1時間で、いかに瞑想に適した心を作るか。毎回試行錯誤するのも楽しいです。

 

冒頭で禅師は、「ダンマを聴いた者は必死に謙虚に修行する義務がある」と仰いました。

今回の法話は「Awareness(気づき)」についてでした。
多くの修行者は「禅相」に迷い、「気づき」のコツが掴めず、アナパナに対する興味を失い、修行を止めてしまいます。
そこで前回の講義では「アナパナの禅相」が明らかされ、今回の講義では「Awareness(気づき)」とは何かが開示されました。
今日の法話のポイントは、「五門で所縁を感知すること」と、「思考・感情・判断などの心理的反応」を、完全に区別する、ということで、法話中、このダンマは何度も繰り返し強調されました。

 

これらを比較すると、
・「所縁の感知」は「今この瞬間」に属し「心理的反応」は「過去」に属する。
・「所縁の感知」に「私」はなく「心理的反応」は「私」からでてきたものである。
となります。

ここで「見る」とは今この瞬間の行為であり「私」は過去に属していることから、
・「私」は「見ること」ができない。
・「見る」という行為に「私」はいない。
となります。

故に、
・五門による感知のみが解脱に至り、思考などの心理的反応は解脱に至ることはない。
というダンマが導き出されます。

 

今この瞬間は常にKusala。過去はAkusala。
自らを「メモリー機能のないリアルタイム・タッチセンサー」としてPhoṭṭhabbaに気づき続けることで、心理的反応を抑制し、Phoṭṭhabba感知を徹底的に磨き上げ、アナパナサティを日々鋭く研ぎすませて欲しい、という言葉で法話が終了となりました。

今日学んだダンマをしっかり胸に刻んで修行に励みたいと思います。

 

 

 

 

 

参学者 S

6/24ウポサタ傳修会

本日のアビダンマ講義は二十四縁起のIndriyapaccayo(根縁)がテーマでした。スタンザ自体は今までと似ていますが、そもそもIndriyaとは何か、いかなるIndriyaがあるのか、根縁に関わる各Cittaに随起するCetasikaは何か等については、背景としてアビダンマの深い理解が必要であり、とても勉強になる一方、今回も「急いで過去のアビダンマ講義を聴かなければ」と切迫感が湧く内容でした。

その後の修行報告に基づく瞑想指導では、示唆に富むアドバイスをいただきました。

まず、禅師がブラジルで修行を行っていた頃、四念処の随観を1日15時間行い、3時間睡眠の眠気を払拭するためにCankamaを多用された話を伺いました(そのvīriyaに圧倒されました)。

正しく心を使えば、Cankamaでも座禅と同程度の専注が得られること、肉体が疲労しているとき、雑念が止まらないとき、隨念を中心に修行するときは、特にCankamaが適していること、毎朝、時間が取れない人も、座禅ではなく、朝起きてそのままCankamaをすることによって、10分程度の瞑想時間は容易にとれるであろうこと、ベッドからトイレまで、ゆっくり10分かけてCankamaをするのもよいなど、日々の修行にCankamaを取り入れる為の様々なアドバイスをしてくださいました。

次に、会社を早退して道場に来山して掃除をした後、瞑想したら、よい専注できたとの報告に対しては、①人助け、お布施、写経でも何でも構わないから、ダンマに心を向けさせる前行(payoga)のパターンを沢山引き出しに入れておくこと、②仕事にあっては、単に気づいている心の状態を保ち、過去の記憶に基づいた思考によっていかなる判断もしないこと、③自分を「外からの悪影響で潰されうる若木であって、柵が必要」と捉え、外部からのAkusalaの侵入に対しては「見ざる聞かざる言わざる」とadhiṭṭhānaしてパッと払いのけることが重要だとアドバイスされました。特に③を徹底的に実践すれば、家に帰ってきて瞑想を行うときに、心の状態はかなり良いはずと強調されました。

その他、食事と生活を変える上で参考になりうる医食同源の先生のご紹介、Cankama中に「気づきを失った」と気づいたときに何が起きているのかの解説(puñña、pāramīによってcaṅkamaを忘れた記憶が蘇り、Pakati-upanissayapaccayo、或いはĀrammaṇa-upanissayapaccayoによってjavanaでdhammacchandaが生起)、いわゆる西洋哲学の自由意志についての考察(蓄積されたkilesa、puñña、pāramī、過去の記憶、苦楽に基づく反応パターン、習慣、adhiṭṭhānaによるmanasikāraの舵取り等の影響を受けており、いわゆる完全な自由意志はない)がなされました。普段学んでいるdhammaをいかに当てはめていくか参考になりました。

 

参学者S

 

第33回托鉢会&週末リトリート伝法

 

本日の托鉢会は、リトリートの前ということもあって、いつもより多くの参学者が参加され、たくさんの料理が並びました。

 

 

チキン、豚肉とナスのピリ辛煮

 

 

 

 

 

キンピラごぼう、ごぼうサラダ、もやしのナムル

 

 

 

 

 

ほうれん草の煮浸し、トマト、サワラ炒め、唐揚げ

 

 

キウイ、紀州の梅、道場のミニトマトを添えたサラダ、ひじき煮

 

 

 

 

 

 

屋上の菜園の野菜も順調に育っています。今日はプチ・トマトを収穫して料理に加えました。

またいつものように禅師が発酵玄米を自宅で炊いて、三升(!)も持ってきてくださいました。

 

リトリート&伝法会

毎回、傳修院のリトリートは、八戒の授戒とKammaṭṭhānaの伝法からはじまります。
このところ、無礙解道入出息論の貴重な伝法がシリーズで続いていますが、今日の伝法は特に重要なものでした。

アナパナサティの禅相について、無礙解道、解脱道論、清浄道論の三論を比較しながら解説が為され、今までアナパナサティのニミッタ(禅相)の取り方がいかに誤りにみちたものであったか、お釈迦さまが実際にやられていたアナパナサティが実はどういうものだったのかについて、非常に明快に開示してくださいました。

本日の伝法は「禁他見」のため、内容をここに書くことはできませんが、伝法を受けた参学者一同、アナパナサティに関する疑問や迷いが完全に払拭され、今後のアナパナサティ修行に、大きな希望の光が与えられた思いでいっぱいです。
伝法は予定の時間を大きく超過して一時間半にわたって行われ、その後そのまま、二日間の傳修院リトリートに突入いたしました。

 

 

参学者K

 

第33回水曜瞑想会

本日は水曜瞑想会に参加しました。
定刻には間に合いませんでしたが、到着すると静寂の中で皆さんが瞑想されていました。
瞑想が終わり辺りを見渡すと、なんと過去最大の参加人数でした!

 

4月より始まった無礙解道論に基づくアナパナサティの講義は、いよいよ「禅相(ニミッタ)」の解説に突入し、無礙解道、解脱道論、清浄道論の三論を比較しながら、詳細な分析と解説がなされています。

 

これまでアナパナのニミッタについては誤って指導されることが多く、我々修行者を混乱させてきました。

今回、経典や注釈疏、豊富な修行経験に基づいて、禅師から正しい禅相の取り方を解説していただけることは大変ありがたいことです。

無礙解道入出息論の講義は本日で17回を迎えました。
現在、これまで講義を受講されなかった参学者の方のために、ビデオによる配信を準備されているそうです。
傳修院以外でアナパナサティに取り組まれている方々も、是非この機会に傳修院に参学して禅師の講義を聴講され、御修行の一助にされればと思います。

生きていると様々なローカ・ダンマに遭遇しますが、このような聞法の機会に恵まれてること自体、「仏法僧から特別な祝福をいただいているのだ」と思えた1日でした。

参学者C

6/17ウポサタ傳修会

台風6号が遥か南の海上で温帯低気圧に変わり、かなり涼しめの梅雨の合間の曇天の朝、いつものように松戸の道場でウポーサタ傳修会が催されました。今軽く「いつものように」と書きましたが、この「いつものように」が滞りなく毎回開かれるのは、禅師をはじめ数多くの方々の、たゆまぬ努力と精進の賜物であることを、ついつい忘れがちになってしまいます。ここで改めて深く感謝いたします。禅師、多くの作務で道場を支えて下さっている皆さん、いつも本当にありがとうございます。

今回の「修行者のためのアビダンマ講座」はその229回目、テーマは二十四縁起のうちの一つ、Āhārapaccayo(食縁)です。
Āhāraは伝統的に「食」と訳されますが、正確にはRūpa(色)のĀhāraであるKabaḷīkāro(段食)と、ArūpaのĀhāraであるPhassa(触)、Viññāṇa(識)、Cetanā(思)の計四種があると解説がありました。

Āhāraとは、もちろん物質的な食べ物(=Kabaḷīkāro, 段食)も含まれますが、仏教ではさらに 、我々人間や諸々の衆生のNāmaとRūpaの連続体に栄養を与え続け、その存続を強固にサポートする要素のことであると定義され、それが四つあると説かれます。なるほど! このように自分がずっと長い間持ち続けていた、強固な物の見方が刷新される瞬間が、仏教を学ぶ上での醍醐味の一つなのかもしれません。

 

「人はパンのみにて生くるものに非ず」、人間には物質的な栄養だけでなく、「神の言葉」のような精神的な栄養がどうしても必要であると聖書には書かれています。
しかしここでのĀhāra(食)はそんな漠然としたものではなく、もっと厳密に、正確に、人間及びその他の衆生を瞬間瞬間、存続させ続けている要素を、Kabaḷīkāro(段食)、Phassa(触)、Viññāṇa(識)、Cetanā(思)の四つにまで、ぎりぎり絞り込んで示してくれています。さすが! と思いました。
それらによって「私たちは生かされている」わけですが、そこで「ありがとう!」とならないのが仏教。最終的に解脱を目指すわけですから、言い変えれば、これらの四つが「輪廻の輪を回転させている元凶」だと考えらているわけです。

いずれ私たちも、これら四つのĀhāraをparamatthaレベルで詳細に識別していくことになるとのことです。また、その段階に至るまでの間、この四食を繰り返し沈思黙考し、日々随念し続けていくことが肝要だというお話が、禅師からありました。

 

そういえば過去のアビダンマ講座において、既に何度かこのĀhāraについて詳しく解説があったことを思い出したので、自宅に戻って調べてみると、117回と178回がそれに当たることがわかりました。117回にはもう既にĀhārapaccayo(食縁)のstanzaとその日本語訳が出ていて(全く記憶に残っていませんでした。お恥ずかしい)、四つの食の詳しい解説がなされていますし、178回ではDīgha-NikāyaのSangīti-sutta(結集経)や、Saṃyutta-NikāyaのĀhāra-sutta(食経)において、お釈迦様がどのようにĀhāraを説かれているかが紹介されています。
Paṭṭhāna(二十四縁起)を勉強していると、必然的に過去の講義の復習が余儀なくされますね。こうやって少しづつ螺旋を描くように、徐々に理解が深まっていくのが仏教の勉強なのだと思います。これからも、落ちこぼれないように頑張っていきたいと思います。

後半は質疑応答のコーナーです。今回は『無礙解道論』の語句の解釈にまつわる二つの疑問について、禅師が答えられました。第一は南伝大蔵経で「普前」と訳されるparimukhaという言葉の真意について、第二は入出息において「長い息を吸いながら長い息を吸っていると知る」という表現は、本当はどう解釈すべきなのかということについてでした。
「個人的な意見ですが」と謙虚に前置きされて、禅師がご自身の解釈を披露してくれました。
ついさらっと聞き流してしまいますが、語られる一つ一つの言葉が、いったいどれだけの修行によって裏打ちされているものなのかは、今の私たちには知る由もありません。でも、いつか少しでもその高みに近づけたらと思います。
今週も充実した一日を過ごすことができました。どうもありがとうございました!
参学者 Q

第32回托鉢会

今日の托鉢会はたくさんの料理が並びました。

焼きなすとトマトのジュレ仕立て

春雨のオイスターソース炒め

ピーマンの肉詰め

おでん

ポテトサラダ

ごぼうサラダ

卵焼き

お漬物

ライチ

この頃、禅師ご自身がご用意してくださる酵素玄米は、申し訳ないと思いながらも、定番になりつつあります。。

今回はたくさんの料理があったので一つの鉢に入りきらないほどでした。

菜園の方は、3本目のキュウリができたとのことでした。
(2本目のキュウリはカラスさんがご試食されたとのことです。。)

今週は久しぶりにリトリートでもなく、当日や翌日に外部会場へ出向くこともない通常の托鉢会でした。

ただ、托鉢会終了後の第一、第二瞑想室では、沢山の参学者が自主的に瞑想する姿が見受けられ、さながらリトリートのようでした。

リトリートであってもなくても関係なく、多くの方が瞑想されているのは、アスピレーションをとても刺激されます。

さて、来週の土日は短期リトリートが開催されます。

ゴールデンウィークの長期リトリートに比べて、短期リトリートの参加者はやや少ないように感じますので、お時間の許す方は、ぜひご参加ください。

また今までリトリートに参加されたことがない方でも、短期のリトリートは気軽に参加できるものだと思います。

禅師に個人インタビューもしていただけますので、普段のコレクティブインタビューでの紙提出ベースでのご指導とは違い、短期集中で瞑想をした後、双方向のコミュニケーションで深いご指導をしていただけますので、是非ご体験いただければと思います。

参学者L

第32回水曜瞑想会

水曜瞑想会は、夜の時間帯であるのにかかわらず、10名もの方が参加されていて驚いた。法話では、阿羅漢ウパティッサ長老の著した『解脱道論』、また前回参加されなかった方に『無礙解道』の「鋸歯の譬え/満月の譬え」の原文のテキストが配布された。水曜の夜の短時間の会だからといって、決しておまけ的な内容ではなく、本格かつ厳格なるĀnāpāna Satiの伝法であった。

法話の内容は「Ānāpāna Satiにおける禅相(Nimitta)とは何か?」この内容について数回にわたって講義し、究明するとのこと。個人的には「ニミッタ=Ānāpāna Satiが深まっていけば出てくる光」くらいの認識だった。
しかし『解脱道論』にĀnāpāna SatiのNimittaの定義が書いてあり、それは上記の認識とは違っていた。個人的には、Ānāpāna SatiのNimittaは口伝で伝えられていくもので、こうした論書に定義は述べられていないと思い込んでいたので、修道論である『解脱道論』に定義が書いてあるということを知って嬉しかった。

しかしこのNimittaの定義が一体、何を意味するのか。定義を知り、スタートラインに立ったということで、今後もより深く禅師の法話を拝聴し、Nimittaに関しての認識を深めていきたいと思った。

禅師の言葉で、
「Saddhā(信)は、善行を積み重ねることで徐々に育っていく」
「表面的、世俗的には不幸に思えるようなことでも、波羅蜜の力によって、結果的に涅槃証悟へプラスになることがある」というものが印象に残っている。個人的には「小さいことでも徐々に積み重ねて、心を育てていくしかないのかな」とも思う。
また、自分が意図していなくとも、修行道のほうへひっぱられる力みたいなものを感じるときがある。

Nekkhammaの手放しで淡々と善行をなし、波羅蜜を積み、また波羅蜜にひっぱられて、善行を積んでいく……というようなこともあるのであろうか。

非力な私だが、今後も精進を重ねていきたい。

 

 

 

参学者 玄沙