第42回水曜瞑想会

本日、水曜瞑想会に参加しました。
瞑想後の法話は、無礙解道大品出入息論のBuddhoti(佛陀論)の第一回でした。

相応部経典 大篇 根相応に、信根、精進根、念根、定根、慧根の五根に関する経典群があります。
その2.軟弱品第三略説[二]に、
「比丘たちよ、これら五根を完成し円満すれば、阿羅漢である。 」とあり、
1.清浄品 十分別[二]には、
「比丘たちよ、何が信根か。
比丘たちよ、ここに聖なる弟子は信があり、如来の覚りを信じる。「これによってもあの世尊は阿羅漢、三摩三仏陀、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏陀、世尊である」と。 比丘たちよ、これが信根と言われる。 」とあります。
(mixi原始仏典コミュニティ様訳)

つまり、阿羅漢果を証悟するためには、五根を円満に完成することが必要であり、五根の一つである信根とは、《如来の悟りを信じる saddahati tathāgatassa bodhiṃ》ことと密接な関係があるわけです。
したがって、阿羅漢に通達するためには、《如来の悟りを信じる》ことが必要であるということが導き出されます。

さて、今週から伝法が始まったBuddhoti(佛陀論)は、15項目に亘り仏の福徳を詳細に分析したもので、まさに如来の悟りへの信を喚起・増強する論説といえます。

今週は、15の偈の最初の3つの伝法でした。
「仏陀の本質=誰にも教わらずに無上で最勝の四聖諦を看破する。」を随念することにより、信根を増強・増大させ、円満に完成させるための強依縁になると確信しました。

禅師のお話で印象的だったのが、修行にあたって、自分には意識を向けるが、仏へ意識を向ける人が少ないというお話でした。
自分のことを振り返ると、筋肉トレーニング的な意識でĀnāpānassati(出入息随念行)を捉えていた節があります。
筋トレは、なんの信がなくても、やっていれば結果はでます。
しかし随念は心に関することであり、まさに今、この瞬間の心が大切となるわけです。
無始の輪廻から続く煩悩を調伏するには、今この瞬間に強烈な信が燃え上がっていることが不可欠であるということが、自分にもおぼろげながらわかってきたように思います。

毎日、漫然と文字を書いていても、美しい文字が書けるようにはなりません。
文字を美しく書けるようになる為には、文字を書きながら、それなりの心の使い方が必要となるでしょう。

Ānāpānassati(出入息随念行)にあっては、《信》こそが修行を進化向上させるための心の使い方なのだろうと思いました。
信は、Kusala(善)の母といわれます。信から喚起された善心が、無始の昔から自分を輪廻へと縛っている強力な煩悩を調伏せしめ、修行者を禅定に導くのだろうと思いました。

さて、無礙解道は、サーリプッタ尊者の口伝集とされていますが、お釈迦さまはサーリプッタ尊者について、「比丘たちよ、サーリプッタはあたかも生母のようです。Seyyathāpi, bhikkhave, janetā, evaṃ sāriputto; 」というお言葉を残されています。
(中部経典141「諦分別経」)

「比丘たちよ、あなたがたはサーリプッタとモッガッラーナに親近すべきです。
〔彼らは〕同梵行者たちの資助者となる賢い比丘たちです。
比丘たちよ、サーリプッタはあたかも生母のようです。…… 比丘たちよ、サーリプッタは預流果へ、モッガッラーナは最上義へ教導します。」(光明寺様訳)

お釈迦さまが名指しでサーリプッタ尊者について、「サーリプッタに近親すべきであり、サーリプッタはあたかも母である」とおっしゃられた史実はたいへん重いと思います。
そのサーリプッタ尊者から学ぶということ、それが無礙解道を学ぶ意義であると思います。

参学者 玄沙

8/26ウポサタ傳修会

本日はウポーサタ傳修会でした。晴れの日が続いており、道場の庭の草木に散水しても直ちに乾いてしまいます。帰り際にもう一度散水しましたが、気になります。

アビダンマの講義では、禅師に指名された六人の参学者が前に立ち、二十四縁起詳説の最初から最後までを暗誦読誦しました。


二十四縁起詳説は、現象と現象の縁が解けたら消滅する(無常である)ことを示す重要なダンマであり、毎日随念を行えば「天界に再生して仏教修行を加速させる」ほどの波羅蜜が積める福田であるが故に、暗誦した二十四縁起のスタンザを、意味をかみしめながら、怠ることなく、日々読誦・随念することを、臨終の日まで続けるよう指導がありました。

修行報告に基づく瞑想指導では、一座ごとに瞑想のレビューを行い、一日の終わりには必ず修行日誌をつけるよう指導されました。忙しい社会人には無駄にできる時間はないのだから、効率的に修行を進めるためにも必ず実践するべきであるとのことでした。

また一度瞑想がうまくいった後、同じレベルの瞑想が再現できないとの報告に対しては、「深い専注を再び得よう」という思いには必ず「私」が内在しており、その時の心はDiṭṭhigata-sampayuttam lobha-mula cittaであって、SatiもPaññāも生起しないため、正念正知や五根は得られず、よい専注が得られないのは当然であると、指摘されました。

無礙解道論の十八随煩悩の解説にもあったとおり、過去や未来に一瞬でも心が向けば、その瞬間に専注の対象から心が離れてしまう事実を忘れてはならないとのことでした。

さらに参学者の方々に次のように問いかけられました。
「みなさんはお釈迦様を自らの内なる導き手として受け入れているでしょうか?」
「サーリプッタ長老やアーナンダ長老は、お釈迦様と離れて遊行しているときも、内なる導き手であるお釈迦様を心に観想し、自分とお釈迦さまとひとつである、という甘美な思いで心が満たされていました。みなさんにも同じような経験がありますか?」と。

お釈迦様への思いと正思惟こそが、幸せ・成長・涅槃への道であって、アビダンマの知識や瞑想の技術は、彼岸に渡るためのイカダに過ぎない、修行が進めば進むほど、この基本をしっかりと心に根付かせる必要があると強調されました。

参学者 S

第40回托鉢会


本日は托鉢会。久々に参加したように感じましたが、思えば先週も参加していました。
日々慌ただしく過ごす中、時間への感覚が薄まってしまいますが、托鉢会に何を持って行くかを考える時に季節を感じ、その移り変わりも楽しむことが出来ているように思います。

 

 

 

 

まだ蒸し暑い日が続きますので、夏らしい、爽やかさのある一品を持参しました。スイカとタコの土佐酢ジュレがけです。

オクラやカツオなど、夏らしいお料理が並びつつ、ナシや葡萄、サツマイモなど、秋の訪れを感じさせる食べ物も並びます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

残暑厳しい中に秋がチラリと見え隠れする、今の季節をそのまま映し出したかのようなテーブルです。托鉢会は、当日に道場に行けなくとも、日持ちする食べ物などを用いての御布施もできますので(当日、参加者が代わりにテーブルにお出しします)、時間がなかなか合わなくても食事の御布施ができます。今回も、その形で1名参加されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

平日道場を訪れた参学者の方が用意された漬物とフルーツです

 

今日は食事の後、1人ずつ、聞きたいことを聞ける時間が設けられました。聖者について、精進と仕事について、解脱に繋がる観察についてなど、色々な質問が出ました。
普段の「ダンマに関する質問」では聞きにくいような内容も質問できる上に、納得・理解できるまで質問することができるのは托鉢会の後の時間ならではと思います。

さて、本日は作務として、新しい坐蒲のの蕎麦殻を入れました。1階で作務する私を、シュラインのお釈迦様は、微笑んで見守ってくれています。

自宅のシュラインのお釈迦様は、ガチな厳しい表情をしていますので、道場のお釈迦様をみるといつも心が和みます。

まだ暑い日が続いていますが、屋上のトマトやキュウリは終了し、今はゴーヤが旺盛に実をつけています。
緑の葉に埋め尽くされた畑の中で、実がなっていても、埋もれて見えにくい状態ですので、畑の中で身をかがめ、下から見上げる形で実を探しました。

緑の香りが漂い、葉が顔面に迫ります。思いがけず、子供の頃、木に登りアケビ採りをしたときと重なりました。あの頃は採れても3個ぐらいでしたが、今日は大収穫です。

畑を整理し、何を植えるかを考える時期になりました。
まさにシュラインの真上で育っている野菜達は、小振りながらも美味しく育ってくれています。
春同様、屋上の畑に植えたいものを募集しますので、是非、皆さんに苗をお持ちいただきたく思います(土や堆肥のご提供も大歓迎です)

参学者TA

第41回水曜瞑想会

本日も水曜瞑想会に参加しました。
ここ数日間、めっきり涼しくなったかと思う間もなく、今日は再び猛暑がぶり返してきました。

水曜瞑想会へはいつも会社から直行するので、道場に到着するのがギリギリの時間にになってしまいます。
心乱れたままで座ることも多く、なかなか瞑想はうまくいきませんが、禅師と一緒に座れる唯一の機会であること、そして水曜のご法話でしか学ぶことのできない無礙解道論の詳細な解説を拝聴できることもあり、水曜瞑想会は私にとって欠くことのできない貴重な機会となっています。

 

さて、7月4日から始まった四善修習についての解説も今回で最後。十の如羲(初心から修行完成までに十種の修行プロセス)の最後の6つの解説がありました。
特に今日は、十種の如羲には、なぜ禅定を完成させた修行者が、Vipassanā修行を始める前に、五神通の修行をするよう説かれているのかについて詳しい解説があり、大変興味深く拝聴しました。

非常にレベルの高い修行階梯についての解説なので、遙かかなたの理想郷を仰ぎ見るような感覚でお話を聞いておりましたが、現在、世俗生活で遭遇する様々な不善から逃れて、常にダンマにのみ心を向けるよう取り組んでいる私に、とても大きな推進力をくださるような、そんな貴重な御法話でした。

帰りはこの水曜瞑想会の後でだけ話をするのが習慣となった法友二人と、わずかな時間の会話を楽しみ、お互いの健闘を祈念しつつ家路に着きました。

これからも「ダンマは一期一会」のお言葉を胸に、聞法の修行を続けていきたいと思います。

参学者N

8/19ウポサタ傳修会

立秋も過ぎ、三日間の旧盆も終わり、空も雲もすっかり秋めいてまいりました。
今日は風も心地よく、清々しい気持ちで傳修院へ向かいます。

先々週でPaṭṭhānaniddeso (二十四縁起詳説)の各縁起のスタンザの解説が終わり、先週から各縁起のPaccaya Dhamma(縁法)とPaccayuppanna Dhamma (縁所生法)についての更に踏み込んだ講義が始まりました。

全スタンザの暗記を終えて、これからは各縁起の縁法・縁所生法として生起するすべてのCitta、それに随起するCetasika、Cittaja-rūpa、Kammaja-rūpaを、自由に観法に使えるレベルにまで身につけていく段階に入るとのことでした。今まで以上に課題・宿題も出されるとのことです。

本日は、先週のHetupaccayoの解説の時に出された宿題の確認から講義が始まりました。
Eka-hetuka(一因)、dvi-hetuka(二因)、ti-hetuka(三因)の各Citta(心)と随起するCetasika(心所)を、それぞれすべて列挙して考察していくのですが、禅師は問いかけの形で私たち参学者からすべての答えを引き出しつつ、そこに懇切丁寧な解説を加えていかれました。

 

内心ビクビクしながら聴講しましたが、私に限って言えば、今まで何度も反復して習い覚えているはずのダンマなのに、禅師の問いかけに対して直ぐに答えが出て来なかったり、突然頭が真っ白になってしまったりと、表面的に覚えているだけで、まだSecond Natureのレベルまで身についてはいないなあ、と痛感させられた講義となりました。

その後、禅師の新しい座蒲についてのお話がありました。
禅師は、ご自身の体験を通して考案された座蒲を、個人的なご修行に長く使っておられます。
最近、傳修院では、禅師の座蒲のシグナチャー・モデル(公式コピーモデル)が制作され、希望する参学者に順次お分けできるようになりました。
この座蒲は参学者の方々がいつも使っている丸い形の座蒲とはまったく違う形状で、座り心地もまったく異なり、
・そば殻による形状記憶で腰と腿全体を支えてくれるため、下半身が安定し、正しい姿勢を長時間保つことができる ・足腰の痛みが大きく軽減される ・その日の骨盤と股関節の状態に合わせて紐で簡単に高さを調節できる ・通気性がよく夏でもむれない 等の特徴があります。
ご興味のある方は、傳修院1階にサンプルがありますから、試されるのも良いかと思います。

次に、質問に答える形で、五蓋(煩悩)の抑制についてのお話がありました。
すでに心に生起してしまった五蓋を抑制しようとしても抑制することはできない、故に五蓋の萌芽となる思考や記憶を生起させない、生起してしまったらすぐに捨て去る、ということに主眼を置くよう、指導していただきました。

要約すると、
・LobhaやDosaは、些細な思考や記憶という形で一瞬の隙に心に入り込み、やがて雪だるま式にAkusalaのスパイラルを増長させていく、やがて心は取返しのつかない状態にまで汚され、瞬く間にコントロール不能のレベルに達し、もはや瞑想どころではなくなってしまう、
・すでに生起し、心を席巻したAkusala Dhammaは非常に強力で、まともに対峙しても、決して抑さえ込むことはできない、
・だからそうなる前に、Indriya-saṁvara-sīla(根律儀戒)によってAkusalaの萌芽を心の対象から外してしまい、その都度、向かうべき対象に心を戻していくことが大切である、というご指導でした。
また「五蓋の抑制とは、すでに生起した五蓋と対峙して、煩悩を抑え込んでいくということではなく、様々な前行や根律儀戒を通じて、五蓋が生起しない心の状態を保つ、という意味である」との指摘が特に印象に残りました。

私自身、心が安定して静まっている時は、根律儀戒を意識し続けることができるのですが、仕事が立て込んで忙しい時など、心を動揺させる要因が多く生起すると(*)、たちまち根律儀戒どころでは無くなってしまうので、これからもさらに心を引き締め、十分な念をもって精進していきたいと思いました。

参学者Y

 

 

 

(*) HP編集者註:心は動揺している限り、悪魔の領域に属する  ー 龍樹

第39回托鉢会、無礙解道伝法

リトリートも余すところ、あと二日、本日は托鉢会と無礙解道の伝法がありました。

今回は、リトリート期間中ということもあって、いつもより多くの参学者が参加され、色とりどりの食材が並びました。

チリ・コン・カー二

 

 

 


コールドチキン

 

 

 

モロヘイヤ

 

 

 


ゴーヤとなす

 

 


ポテトサラダ

 

 

 

マカロニサラダ

 

 

 

 

マスカットと梨

 

 

これだけの心の込もったお食事のDānaを頂戴しながら、「リトリート参加者は瞑想のことだけに集中していればいいんですよ」と皆さんからお言葉をいただきます。なんという修行環境でしょう!感謝の言葉もありません。

托鉢会の後には、無礙解道の伝法が行われました。
本日は、四善修習の最後に開示されている十種の修習のプロセス(十種如義)についての講義の第一回目です。
十種如義は無礙解道第一章「Ñāṇaの章」を出典元としており、それに関連して、
近年の上座部系書籍などで正しい定義が示されず、実質的な同義語として扱われてしまっているPaññindriya-cetasika(慧根心所)、Paññā(慧)、Ñāṇa(智)が、実はまったく異なる働きを担う別々のダンマである旨、各定義についての詳細な解説とともに、伝法していただきました。
無礙解道の伝法が始まって半年がたちましたが、回を重ねる毎にその内容の深遠さに驚くばかりです。

次回の講義を楽しみにしつつ、これからリトリートのラストスパートに入ります!

 

参学者K

 

 

第40回水曜瞑想会

8月のリトリートも後半に差し掛かった中で、本日も水曜瞑想会が開催されました。
最近は仕事の都合や悪天候により都合をつけることができず、私自身、久々の水曜瞑想会への参加となりました。

まずは禅師とともに30分の瞑想です。 今この瞬間の入出息に意識を向ける難しさを痛感しますが、いつものように禅師と法友達が作り出す静寂が、私の意識を高めてくれるのを感じました。

続いて無礙解道論の四善修習の伝法が行われました。今日の内容は大念処経のアナパナサティのスタンザにも関連していたので、いつもにも増して興味深かったです。
「過去や未来の入出息に心が向いた瞬間、禅所縁は失われ、入出息念は途切れる。故に今まさにこの刹那の入息、あるいは出息に心を向け続けることこそが修得されなければならない」との解説がありました。詳細については後日配信される参学者ビデオをご覧下さい。

ご法話の最後に、本日学んだ内容を修習に活かしつつ、残りのリトリートになお一層精進するよう、禅師から激励がありました。

私も週末からリトリートに参加させていただきます。法友達とアスピレーションを刺激し合いながら高みを目指したいと思います。これからも、瞑想会、リトリートなど、毎回参加できるよう積極的に徳を積んで行きたいと決意を新たにいたしました。

参学者C

 

8/12ウポサタ傳修会

今年の夏は異常な暑さが続いていますが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

先週のアビダンマ講義で、ついに二十四縁起のスタンザの解説がすべて終わりました。

私は毎朝、スタンザを暗誦しながら自転車で職場に出勤しているので、講義の進行に合わせてほぼリアルタイムに暗記を積み重ねていくことができました。

もちろんまだ引っかかるところは多く、油断していると、ところどころ頭から溢れそうになったり細部が曖昧だったりしますから、その度にテキストを確認して記憶の強化に努めています。しかし何はともあれ、二十四縁起のスタンザ全てをコンプリートした達成感は非常に気持ちの良いものでした。

そんなことを感じながら今日のアビダンマ講座に出席しました。
次は何をやるのだろうと思っていると、今度は最初のHetupaccayoから順番に、ひとつひとつの縁起をさらに掘り下げて学んでいくとのこと! まだまだ勉強は続きます。

続く質疑応答の時間では、以前から疑念を抱いていたことについて質問を提出し、詳細なお答えをいただきました。
私がやっている習い事と戒律に関しての質問でしたが、おかげさまで完全に疑念を晴らすことが出来ました。

私はその習い事を、すでに何十年も続けてきました。そして一つの道を究めるということが、どんなに大変なことか、如何に長い時間がかかるか、骨身にしみて実感しています。
その経験をそのまま仏教修行に当てはめると、仏教を究めるという目標への、道のりの長さ、険しさを、私なりに実感をともなって想像することができるように思います。

私は仏教を始めてまだ6年、禅師のもとで本格的に修行を始めてまだ3年半程です。
習い事を始めて3年たった頃、或いは6年たった頃の自分を思い出すと、私自身、どれほど未熟だったか、視野がいかに狭かったかが思い知らされます。
それを仏教修行に当てはめれば、自分がまだまだ未熟なのは当然ですし、ひとつの業處をマスターするのに思った以上に時間がかかるのも当然だな、と納得できました。
習い事の経験が、仏教修行に本当に役立っているな、習い事を続けてきてよかったな、と心から思いました。

 

瞑想会の終了後、運良く禅師と少しお話しさせていただくことができました。
禅師から、今後も仏教と平行して習い事を続けて行けばよいとのお墨付きをいただき、自分の今後の生き方に確信が持てました。
先週の原始仏教トークの御法話にもあったように、これからは修行も習い事も、よりダイナミックにやっていきたいと思いました。
本日はどうもありがとうございました。

参学者KL