2018/10/20 第48回 托鉢会

本日は托鉢会に参加しました。

毎週このように比丘に食事をお布施し、功徳を積ませていただく機会があることを大変幸福に思います。今回も参学者の思いのこもった料理の数々が出揃いました。

ボルシチ


サバとトマトのアヒージョ


肉じゃが


ほうれんそうの胡麻和え


インゲンとキノコの胡麻和え

発酵玄米

食事の後、禅師と和やかに歓談した後、各々作務や瞑想をして過ごしました。

ウポサタ傳修会の準備や普段出来ない道場の整理などした後、私は1週間で出来なかった瞑想をまとめて実践致しました。真摯な修行者と共に座ることができたので、1人で座るよりはるかに質の高い瞑想が出来ました。

座った後は法友たちとダンマトークをしました。
それぞれが最近の無礙解道のアナパナサティ解説に感銘を受け、アスピレーションを燃やしてる様子に大変刺激されました。

本日は特別なイベントはありませんでしたが、道場が瞑想はもちろんのこと、奉仕活動で功徳を積んだり、法友たちと交流しアスピレーションを刺激し合うかけがいのない場所であると改めて感動しました。今後も道場の維持、発展の一助となりたいと思います。

参学者 C

2018/10/17 第49回水曜瞑想会

数年前のことですが、何かと不安になりやすく悩みごとの絶えない私は、そうした自分自身を少しでもラクにする手段はないものだろうか、と常に考えていました。そうした中で現在も流行中のマインドフルネスを知り、興味をもって調べていくうちにマインドフルネスの源流に南伝仏教の「ブッダの瞑想法」があることを知ります。

「仏教の瞑想といえば、坐禅じゃないのかな? どんなものだろう?」と、興味をもった私は南伝仏教についての本を読み様々な法話会、瞑想会に参加しました。

最初の心づもりとしては、ちょっと南伝仏教の瞑想についてかじったらマインドフルネスの勉強に戻ろうと考えていました。ところが幼少の頃から宗教が好きだったこともあり、さらに南伝仏教のお坊様方がとんでもなく魅力的な方々ばかりということもあり、とうとうマインドフルネスに戻ることはなく現在に至ります。

南伝仏教のお坊様方の素晴らしさについては、当時このように考えていました。まず、悩みをもった人々への説法の場では、世俗的な悩みでも哲学的な迷いでも、とにかくどのような質問でもパーリ仏典に基づく仏陀の知恵で気さくに答えてくださる。さらに、法話だけではなく、バリエーションはありますが瞑想の仕方を教えてくださるのです。つまり現実的、実践的に悩みを解消するツールを与えてくださる。しかも多額のお布施を強要するということはない。ないどころか要求すらしない! なんと素晴らしいことでしょう。日本にたくさんある大乗仏教のお寺やお坊さんがやるべきことはこれではないのかな。そのように感じ、南伝仏教に惹きつけられたわけです(もちろん、現在では日本のお寺やお坊様も様々な取り組みをされていることを承知しています)。

仏教的な考え方や瞑想の実践は、多少なりとも私の心に安穏で静寂な時間をもたらしてくれました。

さて、今日の法話は「無碍解道入出息論 三十二作念智」の「短入出息」及び「遍身出入息」についてです。
今回は、まさに瞑想法アナパナサティについて、それを修習しようとする誰もが疑問に思う点についての伝法でした。

アナパナサティ・スッタで「長い息を吸っているときは〜」からはじまるスタンザにおいて、一行目と二行目の「長い息」「短い息」とは? 「長い」「短い」の基準はあるのか? 「長い」息と「短い」息を決めたとして、では具体的にどのように修習すればよいのか?

また、三行目の「Sabbakāyapaṭisaṃvedī~」のSabbakāyaとはなにを指すのか? 身体全体のことなのか、それとも呼吸自体をKāyaとみて息の全体を感知することなのか?

こうした点について、サーリプッタ長老の説示とされる無碍解道では具体的に記述されており、それを禅師が明解に紐解いてくださいます。説明に際しては、アビダンマによる豊かな肉付けもあり、その伝法は明解でありながら大変詳細なものでもありました。

傳修院からの帰り道、法友の方々との第一声は「今日(の法話)はすごかったね!」でした(思い起こすと毎週そう言いながら帰っているのですが)。
理解するだけではなく、さっそく自分の瞑想の修習に取り入れていきたいと思います。

参学者SA

2018/10/16 番外編 ガンダーラ展を見に行きました!

先日の日曜日、ウポーサタ傳修会が始まる前の時間に、松戸市立博物館で開催されている「ガンダーラ ~ 仏教文化の姿と形」展を見てきました。この催しのことは、前の週に法友から聞きました。会場は道場から歩いてほんの15分くらいの、21世紀の森と広場の中にあります。
この会場での本格的なガンダーラ美術の展示は、約20年ぶりくらいのことだそうです。


思えば、昔も昔、1980年代の始めに、今はもうない池袋の西武デパートの美術館で、ガンダーラの仏像展を見た記憶があります。当時は奈良や京都の古い日本の仏像が好きで、よくお寺を回っていました。その源流の仏像が見られるということで、喜び勇んで行ってはみたものの、異国情緒はあったのですが、その頃私が思っていた仏様独特の「ありがたさ」はあまり感じられなかったように思います。それでもその時話題になった、お釈迦様が骨と皮だけのお姿の「釈迦苦行像」はとてもリアルで、もの凄いインパクトがありました(そのレプリカは鎌倉の建長寺で今でも見ることができます)。
しかし、この何年か集中して学んでいる原始仏教のお蔭で、お釈迦様に対する思いも当時とはだいぶ変化していて、今回は見ていて全く別な感覚を覚えました。この「ガンダーラ ~ 仏教文化の姿と形」展は、展示物の数こそそれほど多くはありませんが、それでも少数精鋭といった感じで、とても見ごたえがあります。特に、松戸市が所蔵しているという、仏像の二大源流と言われているマトゥラー(現インド)とガンダーラ(現パキスタン)の二タイプの、特徴的な仏頭が二つ並べて展示されていて、大いに目を引きました。
その他にも、長い髪を頭上で束ねた、お釈迦様の若き日のお姿の立像や、過去世における燃燈(ディーパンカラ)仏からの授記、四門出遊、降魔成道、初転法輪、カーシャパ三兄弟の帰依など、原始仏教トークなどでも何度か取り上げられた、様々な仏伝を表したレリーフなどが展示されていました。お話を聞いたり文章で読んだ物語を、こうやってアートの形で見せられると、より一層深くお釈迦様への畏敬と敬愛の念が高まります。

これらの像やレリーフが作られたのは、お釈迦様が入滅されてから数百年後のことですが、それでも当時のインドの空気感のようなものが、ダイレクトに伝わってくるように思いました。そういう意味で、とても貴重な体験を得ることが出来ました。
もうすぐ傳修院が開山して一年になります。偶然かもしれませんが、この時期にこんな近くでガンダーラ展があるなんて、何だかお釈迦様がお祝いしてくださっているような気がして、嬉しく思いました。
特に先に書いたガンダーラの仏頭が、傳修院で頂いたブッダニミッタのイメージにとても良く似ていて感動しました。何しろお釈迦様のお姿を、こんなに間近で3Dで見ることができるのですから、今後仏随念をするときなどに、より観想がし易くなった気がします。

 

この展覧会は11月25日まで開催されています。ご興味のある方は是非ご覧になってみては如何でしょうか。詳しくは博物館のホームページで。
https://www.city.matsudo.chiba.jp/m_muse/tenji/Gandhara2018.html
参学者Q

2018/10/14 ウポーサタ傳修会

先月から気分転換も兼ねて傳修院に行くのに最寄り駅でなく、少し遠い乗り換え駅まで自転車で行って、そこから電車に乗って道場に通っています。今日は朝から雨模様で、降ったりやんだりの天気だったので、自転車では無理かなと思ったのですが、出かけるころには空が明るくなってきて大丈夫でした。

午前中の瞑想から参加しました。最近短い時間で区切りながら、瞑想するようにしているので、長い一座は久しぶりでした。

アビダンマ講座はSahajātapaccayoのMajjhima-Sahajāta Paccayoグループの解説でした。今日の講義でSahajātaとAññmaññaとSampayuttaの微妙な定義の違いや、どういったニュアンスで分類しているのか等、わかりやすくなったと思います。講義の内容自体にはついていけるのですが、大分前に学んだCetasikaの詳細がだんだん怪しくなってきたので復習の必要を感じました。

質疑応答では、仏随念の時の心の使い方についてお答えがありました。
NimittaをトリガーとしてSaddhāが出てくるように、お釈迦様のNimittaを自分の心の中で育て上げていかなければならない、というお話でした。
Nimitta自体が本物のブッダかどうかはポイントではなく、それがSaddhāのトリガーとして機能するかどうかが重要ということでした。
個人的にとても参考になるお話でした。

また、自分の目指す修行者モデル、という質問について、仏教徒なら慈経にあるような修行者を目指すべし、というお話がありました。
私個人の人間関係を想い起こせば、それは困難なことのように思えましたが、お経の中でも最も古層に属するスッタニパータの中に編纂されている、おそらくお釈迦様の本当のお言葉だったろうと思われる慈経ということもあり、やはり忘れずに心にとめておこうと思いました。

参学者Y

2018/10/13 第47回 托鉢会


10月も中旬に差し掛かり、空気も冷たく、秋の深まりが感じられます。
さて、リトリートも残すところ後1日、本日は托鉢会と無礙解道の講義がありました。

托鉢会の料理は、

ニシンの昆布巻き

酢豚

高野豆腐

揚げ出し豆腐

ニンニクの醤油漬け

根菜の煮物

葡萄

でした。

托鉢会の後に行われた講義の内容はAnupassanā についてで、前回の講義に引き続いて、安般念でVipassanāを修習する方法について解説されました。
なお、ここで解説されているものは観法についてであり、今行っている禅定を得るための安般念の方法とはは異なるものであり、混ぜてはならないとのことでした。

無礙解道で説かれている内容は高度な法であり、今すぐに活用できるものばかりではありません。しかし、この学びが今後の修行の縁起となることを思えば、真剣にこれらのダンマを身につけていきたいという強い意欲が生じました。

参学者K

2018/10/10 第48回 水曜瞑想会

本日は水曜瞑想会でした。静謐な雰囲気の中で禅師や善友と共に瞑想をすることができる貴重な機会です。

瞑想後の法話は、無礙解道論です。今月からいよいよ、四念処の最初に書かれているānāpānasatiについての解説が始まり、心躍ります。

本日は、先の土曜日に開示された「長入出息の九行相」の復習から始まりました。アナパナサティの十六行のスタンザは各行が入息と出息から成り立つため、実質的には三十二行から成り立ちます。九行相は、その三十二行の全てに当てはまる修行のポイントであるため、特に重要であるとのことです。

禁他見のため詳細は省略しますが、最初の三行相は以下のとおりです。

①長い入息とみなした長さいっぱいを正念正知をもって出息する。
②長い出息とみなした長さいっぱいを正念正知をもって出息する。
③長い入出息とみなした長さいっぱいを正念正知をもって入出息する。

ここでは、呼吸の長さではなく、呼吸の長さいっぱいを観察しながら感受していくことが大事であり、単に呼吸の一部を捉えて「入息」「出息」とラベリングするものではありません。

次の三行相は以下のとおりです。

④Chanda(志欲)が生じて、さらに微細に なった長い入息について(以下、①と同じ)。
⑤Chanda(志欲)が生じて、さらに微細になった長い出息について(以下、②と同じ)。
⑥Chanda(志欲)が生じて、さらに微細になった長い入出息について(以下、③と同じ)。

最後の三行相は以下のとおりです。

⑦Pāmojja(勝喜)が生じて、さらに微細になった長い入息について(以下、①と同じ)。
⑧Pāmojja(勝喜)が生じて、さらに微細になった長い入息について(以下、②と同じ)。
⑨Pāmojja(勝喜)が生じて、さらに微細になった長い入息について(以下、③と同じ)。

以上の九行相がアナパナサティの骨組みであると説示されました。

さらに進むと、Cittaの所縁が長入出息から退転するという現象が生じ、そこにTatramajjhattatā(中捨)が確立し、Upacāra-samādhi、Appanā-samādhiへとCittaが導かれていくと説示されました。以上が前回までの復習です。

次に本日のテーマであるSati Upaṭṭhānaの解説です。
Sati Upaṭṭhāna(念の現起)とは、Kāya(入出息と触)を感受・観察するレベルの念と、慧根と結びつき活性化した鋭い念(正念正知)との二段階の現起があることが開示されました。また正念正智によってKāyaを随観することが四念処法となると説示されました。

引き続き、Anupassanā(随観)の概説がありました。
無礙解道のこの部分はVipassanāの解説ではあるものの、修行法を俯瞰する上で役に立つため解説をいただくことができました。
四念処法は、禅定修行から観行、道果智の証悟に至るまで、螺旋階段状の構造になっており、Bhāvanāもまたそのように修されるとのことです。

例えば、Iriyāpatha(威儀)の「比丘は歩いている」を例にとると、
初心の修行者であれば、メタ認知のように「私は歩いています」「私は前に右足を出しています」などという行動認知の段階からはじめる必要があるかもしれません。

しかし実際のVipassanāの段階に至れば、先ず「歩かん」とのCetanāが生起し、実行するChandaが生起し、同時に生起するCittaがKāyaviññattiを生起させて、自分の足を中心とするKāyaが今の場所で消滅して次の場所で生起する、というプロセスの繰り返しによって歩行が成立していることを観察し、そこに関わるすべてのCitta、Cetasika、Rūpaの生起消滅を明確に識別し、そこに内在する無常性・苦性・無我性を随観していきます。

Ānāpānaを禅定修行として修習しているのであれば、先の無礙解道論の解説のとおり、ChandaとPāmojjaにそって修行していけばよいわけです。

しかしVipassanāの段階のĀnāpānasatiでは、Kāya(入出息であるCittaja rūpaとPoṭṭhabbaの三種のMahābhūta-rūpa)について生起消滅を明確に識別し、そこに内在する無常性・苦性・無我性を繰り返し随観し、常住・常楽・実体という謬見を砕破するべくVipassanāを何度も修習していきます。

この二つの別の段階を混ぜて、Pāmojjaの歓喜を否定して、これは苦である、と観察することはもちろん誤りであり、禅定修行とVipassanā修行を決して混ぜてはいけない、ということを重ねて注意されました。

参学者S

2018/10/07 ウポーサタ傳修会

昨日に続き、季節は外れの夏のような陽気となりました。
本日のウポーサタ傳修会は「修行者のためのアビダンマ講座」伝法五周年記念日にあたり、沢山の参学者の方が来山されました。

今日の法話は伝法五周年記念講義として、「修行者にとってのアビダンマ」についてのお話でした。

禅師が2013年に帰国されてから始められたアビダンマ講座も、今月で丸五年となり、その回数も244回に至りました。
解脱に至る修行に必要な深淵なダンマや瞑想法の伝法をする際に、どうしても必要となる仏教の知識ベースを修行者の方々に身につけてもらいたい、その為には先ずアビダンマの伝法からはじめるべきである、とのお考えから「修行者のためのアビダンマ講座」が開講されました。
禅師がこの5年間のアビダンマの伝法で感じている事の一つとして、「アビダンマの勉強を言われたとおりしっかりと学び継続している修行者は、アスピレーションが守られていて、道を踏み外すことがない」というお話がありました。「これについてはいくつもの実証があります。大切に心に留めておいて下さい」との御教示的なお話を頂きました。

御法話の中で禅師は、御自身の過去世からの修行体験、アビダンマとの出会い、修行者にとってアビダンマは如何なる役割を果たすか、などについて詳しく講話して下さいました。

アビダンマの歴史を考察すると、お釈迦様の入滅100年以降、次第に多くの部派が形成され、各部派が独自のアビダンマを持っていたということ(その殆どが消失し現存しているものは少ないが、優れているものも多くある)、
また、
大寺派のアビダンマ・ピタカ(論蔵)には七つの論が収められているが、アビダンマはこの七論に限るものではなく、上座部系各部派の論蔵もまた学ばれるべきこと、
それにも関わらず現代では、お釈迦様が入滅して1500年の後にセイロン仏教大寺派のアヌルッダ長老によって在家や沙弥の為に書かれた短い入門書であるアビダンマッタサンガハのみが、アビダンマとして学ばれていることなど、いくつかの問題点を指摘されました。

また禅師は、スッタとアビダンマは分けて理解するものではなく、スッタを深く正確に理解するためにこそアビダンマが使われるべきであり、また、アビダンマの理論的源泉はスッタにこそ求められるべきである、とお話しなられました。どちらもブッダ・ダンマであり、禅師にとってアビダンマとは、Higher Dhammaに他ならない、とのことでした。

最後に禅師から、アビダンマを深く学んでいく際に、どうしても忘れてはならないことについて重要な指摘がありました。
アビダンマを深く学べば学ぶほど、修行者は瞑想修行や徳行の実践(思考を止める、善行をする、身施、財施、法施などの布施行、信を深める、慈しみの心を育て、人に優しくするなど)をしっかりと修行するように、との御教示を頂きました。
すなわち「ダンマの学び」と「ダンマの実践」はクルマの両輪のようにバランスよく修習していかなければならない、 ということです。

私達仏教修行者には ①今生での世俗的な成功 ②天界への転生 ③涅槃証悟 という三種類の目標設定があり、そのどれを目指しても構いません。
お釈迦様がこの世で法を開示されていた当時のように、各修行者がそれぞれ、この3つの目標のうち自分にあったものを選んで、各々が修行に励んでいく世の中になれば素晴らしい、と思います。
私もまた、アスピレーションを絶やさずに燃え上がらせて、禅師の御指導を頂きながら努力精進し、自己完成を目指していきたいと思います。

参学者Y

2018/10/06 第46回 托鉢会 & 10月リトリート開始

昨夜は、ここ数日の寒さを鑑み、リトリート用の荷物の鞄に温かい衣服を詰めたものの、今日は夏のような暑さとなりました。
傳修院に着くと、入り口の案内板には既にリトリートの案内が掲げられていて、入る前からスッと気が引き締まります。

 

10月に入り、スーパーには美味しい果物がたくさん並ぶようになりました。昨日は新宿駅構内にも八百屋が出張しており、今回はそこで購入したトロトロに熟れた柿を使いての「柿の白和え」と、「ゴボウのクリームきんぴら」を持参しました。テーブルには身体が温まりそうな料理が多数並びます。

モツ煮込み

ナスの浅漬け

きのこ類の煮物

カレー煮物

根菜類の炒め物

ゴボウのクリームきんぴら

キウイフルーツ

柿の白和え

本日は午後からリトリートです。伝法は主に「九行相」についてでした。瞑想のご指導の際に何度か教わっている内容ではありましたが、「仏法は毛穴から染み込む」といいます。毛穴から確実に染み込んでもらいつつ、重要なことは何度でも聴いて、頭に入れておかねばなりません。

また、いわゆる「マインドフルネス」とどう異なるのかも説明され、なるほどと合点がいきました。
「気づき、気づき」といいますが、日常において、「気づく」こと自体にだいぶ個人差があることに気づかされます。
人は、普段の自分にとって気づくことに違和感がない範囲、気づくことに負担がない範囲でしか基本的に気づくことはありません。

アナパナサティにおいては、「気づかねばならない対象にきちんと気づく」、そしてその「気づき」を必要なだけ持続する必要があります。まさに「調教」となりますので、最初は大変な”仕事”にはなりますが、仏教の実践とは心の調教でもありますので、これに取り組まなくては、スタート地点にいるのかすら怪しいこととなってしまいます。

〔自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。〕
(「ブッダの真理のことば・感興のことば」中村元著より)

瞑想をはじめて数年ですが、「道」とつくものは10年やって初めてスタート地点だと、昔、書道の師匠に教わりました。瞑想、仏道の実践はまだ数年ですので、スタート地点にも立てていないと捉え、誠実に取り組んでいかねばと思います。

屋上に出ると日差しが照る中、秋風が吹いていました。畑には大根とゴボウ、カブの種蒔きが為され、ジャガイモの苗などが植えられています。

大根は発芽していましたが、ゴボウとカブは、ここしばらくの雨天と台風の影響か、発芽できていない模様です。ジャガイモは元気に育ち、そろそろ土寄せをした方がよさそうです。

今回、私は基本的に休日のみのリトリートへの参加となりますが、”今なすべきことをなす”ことを意識し、弛まず取り組みたいと思います。

〔浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない〕
(「ブッダの真理のことば・感興のことば」中村元著より)

参学者TS