6/17ウポサタ傳修会

台風6号が遥か南の海上で温帯低気圧に変わり、かなり涼しめの梅雨の合間の曇天の朝、いつものように松戸の道場でウポーサタ傳修会が催されました。今軽く「いつものように」と書きましたが、この「いつものように」が滞りなく毎回開かれるのは、禅師をはじめ数多くの方々の、たゆまぬ努力と精進の賜物であることを、ついつい忘れがちになってしまいます。ここで改めて深く感謝いたします。禅師、多くの作務で道場を支えて下さっている皆さん、いつも本当にありがとうございます。

今回の「修行者のためのアビダンマ講座」はその229回目、テーマは二十四縁起のうちの一つ、Āhārapaccayo(食縁)です。
Āhāraは伝統的に「食」と訳されますが、正確にはRūpa(色)のĀhāraであるKabaḷīkāro(段食)と、ArūpaのĀhāraであるPhassa(触)、Viññāṇa(識)、Cetanā(思)の計四種があると解説がありました。

Āhāraとは、もちろん物質的な食べ物(=Kabaḷīkāro, 段食)も含まれますが、仏教ではさらに 、我々人間や諸々の衆生のNāmaとRūpaの連続体に栄養を与え続け、その存続を強固にサポートする要素のことであると定義され、それが四つあると説かれます。なるほど! このように自分がずっと長い間持ち続けていた、強固な物の見方が刷新される瞬間が、仏教を学ぶ上での醍醐味の一つなのかもしれません。

 

「人はパンのみにて生くるものに非ず」、人間には物質的な栄養だけでなく、「神の言葉」のような精神的な栄養がどうしても必要であると聖書には書かれています。
しかしここでのĀhāra(食)はそんな漠然としたものではなく、もっと厳密に、正確に、人間及びその他の衆生を瞬間瞬間、存続させ続けている要素を、Kabaḷīkāro(段食)、Phassa(触)、Viññāṇa(識)、Cetanā(思)の四つにまで、ぎりぎり絞り込んで示してくれています。さすが! と思いました。
それらによって「私たちは生かされている」わけですが、そこで「ありがとう!」とならないのが仏教。最終的に解脱を目指すわけですから、言い変えれば、これらの四つが「輪廻の輪を回転させている元凶」だと考えらているわけです。

いずれ私たちも、これら四つのĀhāraをparamatthaレベルで詳細に識別していくことになるとのことです。また、その段階に至るまでの間、この四食を繰り返し沈思黙考し、日々随念し続けていくことが肝要だというお話が、禅師からありました。

 

そういえば過去のアビダンマ講座において、既に何度かこのĀhāraについて詳しく解説があったことを思い出したので、自宅に戻って調べてみると、117回と178回がそれに当たることがわかりました。117回にはもう既にĀhārapaccayo(食縁)のstanzaとその日本語訳が出ていて(全く記憶に残っていませんでした。お恥ずかしい)、四つの食の詳しい解説がなされていますし、178回ではDīgha-NikāyaのSangīti-sutta(結集経)や、Saṃyutta-NikāyaのĀhāra-sutta(食経)において、お釈迦様がどのようにĀhāraを説かれているかが紹介されています。
Paṭṭhāna(二十四縁起)を勉強していると、必然的に過去の講義の復習が余儀なくされますね。こうやって少しづつ螺旋を描くように、徐々に理解が深まっていくのが仏教の勉強なのだと思います。これからも、落ちこぼれないように頑張っていきたいと思います。

後半は質疑応答のコーナーです。今回は『無礙解道論』の語句の解釈にまつわる二つの疑問について、禅師が答えられました。第一は南伝大蔵経で「普前」と訳されるparimukhaという言葉の真意について、第二は入出息において「長い息を吸いながら長い息を吸っていると知る」という表現は、本当はどう解釈すべきなのかということについてでした。
「個人的な意見ですが」と謙虚に前置きされて、禅師がご自身の解釈を披露してくれました。
ついさらっと聞き流してしまいますが、語られる一つ一つの言葉が、いったいどれだけの修行によって裏打ちされているものなのかは、今の私たちには知る由もありません。でも、いつか少しでもその高みに近づけたらと思います。
今週も充実した一日を過ごすことができました。どうもありがとうございました!
参学者 Q