第49回原始仏教トーク

本日の法話を拝聴し、清らかな信というのは、得難きものだと思いました。

これを受けて1つ思い出したことがあります。
2016年、「将棋ソフト不正使用疑惑」というものが起こり、将棋の三浦弘行九段が対局において、スマートフォンを用いたカンニングが疑われました。
第三者委員会の調査により、疑惑の根拠の証言が、そもそも偽証だったことなどが明らかになり、三浦九段は、潔白と判明したのですが、まだ、そういった真相が不明な時期に屋敷伸之九段のコメントが印象に残っています。

「真相が全くわからないのでコメントしようがない。
個人的には三浦九段の人間性もわかっているので、不正をやるようなことはないと思う」。
(2016年10月27日朝日新聞)

「真相が全くわからないのでコメントしようがない」でコメントが、終わるのが普通だと思います。
私も、屋敷九段のような状況に追い込まれ、コメントを求められたら、こういったコメントをする可能性はあると思います。
しかし、屋敷九段は、続けて、「個人的には三浦九段の人間性もわかっているので、不正をやるようなことはないと思う」と表明しました。
屋敷伸之九段は、三浦弘行九段の人間性を信じたわけです。
私はこのコメントに、屋敷九段の同僚に対する「信」を感じました。


本日の原始仏教トークでは、「信(Saddhā)」には、幾つかのレベルがあるというお話でした。
そして、上記のお話は、1番目の「信を置く」とか2番目の「信用する」というレベルでまだ、Saddhāの本領というか、Saddhā Cetasikaが生起するレベルでの信ではないとのことです。
しかし、自分が三浦弘行九段のような窮地に陥った際に、どのくらいの職場など周りの人が、「あなたはそんなことはやらない人だ!私は信じる!」となるのかを思うと、上記のような「信」でも世間ではなかなか尊いものだと個人的には思います。
それでは、お釈迦さまが説かれたCetasikaレベルのSaddhāとは、何でしょうか。
以下に経典を引用します。

Vitakkavicārānaṃ vūpasamā ajjhattaṃ sampasādanaṃ cetaso ekodibhāvaṃ avitakkaṃ avicāraṃ samādhijaṃ pītisukhaṃ dutiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati.

「尋と伺の寂止のゆえに、内なる浄あり、心の一境性あり、尋なく伺なく、三昧より生じた喜と楽ある二禅に達して住し……」
(長部経典22 大念処経
光明寺様訳 http://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c09.htm)

禅師のお話によると、第二禅定で、踏ん張っているわけでもないのに、心が集中すべき対象に専注できるという不思議な体験を目の当たりにするとのことです。
それの圧倒的な体験によってBuddha Dhammaに対して絶大な清らかな信が生起する。
その清らかな「浄信」がsampasādanaṃということらしいです。

Saddhāの性情として、「輪転王の魔法のエメラルドの比喩」が印象に残りました。
どんなに濁った水でもその魔法のエメラルドを浸すと、濁った水が美しく清らかなものになる。
まさにそのように、Saddhā(信)というのは、心に生起すると、心の穢れが浄化され、疑念や疑惑、不善な濁った心が雲散霧消。霧が晴れたように清らかなものにものになる。
そのようなものだとのことです。

しかし、私が今まで学んできたテーラワーダ仏教(大寺派仏教)のSaddhāとは、
・Amūlikā saddhā(アムーリカー・サッダー 根拠がない信仰)中部経典95 チャンキン経
・Ākāravatī saddhā(アーカーラヴァティ サッダー 可能性が高い信 )中部経典60:無戯論経
あるいは、
・増支部三集五品カーラーマ経
など、
「Saddhāとは根拠のあるものを信じる科学的な信」とか
「○○だからと言って信じてはいけない」といったものでした。
しかし、マハーカルナー禅師によれば、それは経典の文脈を無視して、一部だけ切り取った誤った解釈だとのことでした。
例えば、カーラーマ経ですが、まずこれはあるバラモンに説かれたものです。
そして、バラモンが「いろんな人がいろんなことをいい。だれが本当かわからない」と言う。
それに対して、ブッダが、「さまざまなの宗教の経典など、全部鵜呑みにしないで、自分で、Kusala(善)かAkusala(不善)か確かめましょうね」
と言って、遠回しにバラモンの信を傷つけずに、仏道の世界に誘っている経典とのことでした。
確かに、ブッダの教えは対機説法。
あるバラモンとのある状況を受けての、「信じるなかれ」の教えをあらゆる場面においてあてはめるのは、問題があると思いました。
Amūlikā saddhā、Ākāravatī saddhāについても同様で、Saddhāという言葉は使っているものの、これはSaddhā CetasikaというParamattha Dhamma(究竟法)レベルの話でなく、世俗諦の信用レベルの話で、世俗諦の信用レベルの「信用に根拠がある/ない」という話を、Saddhā Cetasikaにまであてはめるのは、誤りであるとのことでした。

マハーカルナー禅師の言葉で印象に残った言葉で、
「仏教のすべてはSaddhāがあって初めて是認される」
という言葉がありました。

私は、以前から、一部のテーラワーダ仏教(大寺派仏教)になんとなくあまりよくない意味でドライな感覚、殺伐とした感覚を受けていました。
そのドライな感覚を説明すると、昔、「アッシー君」という言葉がありました。
女性が男性に対し、「終電とかで電話したら車で迎えに来てくれるから、便利だからとりあえずつきあっておくか」という感覚でつきあいます。そのお迎えに来るだけの男性を指し「アッシー君」という単語がありました。
この人間の「便利だからとりあえずつきあっておくか」という感覚。
これは打算ですが、この感覚に、なんとなく、人間の持つ殺伐としたドライさを感じていました。
そして、一部のテーラワーダ仏教(大寺派仏教)にもなにか、これに通じるドライさを感じていました。
最近、ラーマクリシュナの本を読み、温かい「ハート」を感じ、「そうか、欠けていたのはこれだったのか!」という発見がありました。

このドライな感覚の原因。
心胆を寒からしめるような感覚の原因。
殺伐とした感覚の原因。

今にして思えば、禅師のおっしゃる純粋なSaddhāの欠如だったのかもしれません。
そのようなことを最近思っていたので、
「仏教のすべてはSaddhāがあって初めて是認される」
という禅師に言葉が個人的にことさら重く響きました。

sampasādanaṃ。浄信。濁った水が、魔法のエメラルドで美しい清浄な水になるように、濁った心が清浄になるようなSaddhā。
これは、いわゆる「Ākāravatī saddhāーAmūlikā saddhā解釈」「カーラーマ経解釈」の延長線上に、あるかと問われた時、「確かにその延長線上にはない……」と感じました。

そして、Saddhā自体は無条件的な信であるが、Saddhā自体はPaññindriya(慧根)とバランスをとるという教えがあります。
これは、アビダンマなどDhammaを勉強することによって、Saddhāの方向性が正しいものに是正されていくということだそうです。

禅師のご法話を拝聴し、自分が長年感じていた、ドライな感覚、殺伐とした感覚の原因がわかったような気がします。
鍵は、Saddhā であると思います。
少しずついい方向に進めるように、随念などで、自分の中のSaddhāを育てていこうと思います。

参学者
筆名:玄沙師備